残された時間を、支えてくれた人たちに持てる力の全てを出して恩返しすることに使いたい
「もう一度コンサートを」の目標が、膵がんを抑え込んだ・木村功さん

取材・文:崎谷武彦
発行:2005年12月
更新:2013年8月

  
木村功さん(
木村功さん(
ジャズミュージシャン)

きむら いさお
1948年生まれ。宮城県出身。
本名江村功。高校時代に入ったブラスバンド部でジャズを知り、高校卒業後はサックス奏者の道を歩む。
1993年には東京ジャズギルドオーケストラを結成し、バンドリーダーを務める。
2004年9月、膵臓がんを発病。
開腹手術を受けるもすでに腹膜播種があったためそのまま閉じ、余命半年を告げられる。
しかしその後、化学療法を受け、がん細胞は縮小している。


画像を見た途端、医師の顔色が変わった

2005年4月29日、宮城県古川市の市民会館でコンサートが開かれた。出演したのは日本のジャズミュージシャンの実力派を揃えたプロのビッグバンド、東京ジャズギルドオーケストラと、アマチュアのジャズファクトリーオーケストラ、多摩ジャズワークショップ。地方都市でビッグバンドのジャズ公演が行われることは珍しく、市民会館は超満員となった。

「幕が下りたときは、感謝、感謝の気持ちでいっぱいでした」

自宅の居間で木村功さんがそう振り返る。

写真:Shibuya Sound Paradise2005

2005年9月17日に東京・渋谷の特設ステージで行われた「Shibuya Sound Paradise2005」。そのちょうど1年前のこのライブの直後から闘病が始まった

昨年の9月18日、木村さんは渋谷で自分のバンドとともにライブ演奏を行ったあと、バンドの仲間やスタッフたちと一緒に打ち上げに参加した。もともと酒好きなほうで、この晩もしこたま飲んだ。そして深夜に帰宅。いつもと同じパターンだった。

だがこの日はいつもと違った。帰宅したら急に気分が悪くなり、食べたものをもどしてしまったのだ。そんなことは初めてだった。そのしばらく前からときどき背中や脇腹が痛むことがあったのを思いだし、不安がゆっくりと広がっていく。看護師をしている奥さんの真弓さんの奨めもあって、数日後、木村さんは近所にあるM大学病院を訪れた。

「膵炎かもしれませんが、それほどひどくないようですから薬を出しておきましょう」

血液検査と触診だけで医師は診断を下した。だが処方された薬を飲んでも体調は一向によくならない。食欲がなく、体重はどんどん減っていった。M大学病院はもともとあまり評判がよくない。そのため1度は病院を代えようとしたが、木村さんが主宰しているジャズスクールの教え子が主任教授に直接連絡してくれるというので、再びM大学病院を受診した。この教え子は歯科医をしていて、主任教授のことをよく知っているということだった。

「MRIの画像を見て主任教授の顔色がサッと変わりました。そして内科の担当医のところへいくと、すぐに手術の話になりました。でも僕はこの病院で手術を受ける気はもともとなかったので、横浜でクリニックを開業している高校時代の友人に相談しました」

手術をしなければあと半年の命

写真:高校時代からの親友でもある山崎胃腸科クリニック院長の山崎具基さんと

高校時代からの親友でもある山崎胃腸科クリニック院長の山崎具基さん。「今元気でいられるのは彼の力によるところが大きい」

この時点で病院はまだ病名を明かしていない。しかし真弓さんは長い看護師経験から、「膵臓がんだとピンときた」という。木村さん自身も「薄々分かっていた」そうだ。

M大学病院で撮ったMRIの画像などを一式持って、木村さんは横浜市にある山崎胃腸科クリニックを訪れた。山崎具基院長と木村さんは古川高校時代、ともにブラスバンド部で活動した仲だ。山崎さんは、一刻も早く手術したほうがいいと前置きをしたうえで、手術する病院として「がんセンターか東海大学病院か、あとは自分でいいと思った病院のいずれかを選べ」とアドバイスした。

このとき木村さんは自分が若いときに師事したテナーサックス奏者の松本英彦(故人)さんが生前、都立駒込病院で咽頭がんの手術を2回受け、2回とも成功していることを思い出した。執刀医の名前も覚えていた木村さんはインターネットで確認し、そこで手術を受けることを決めた。

駒込病院の初診を受けたのは11月24日。体調を崩してからもう2カ月以上が過ぎていた。

「切りましょう」

外科のT医師はそういった。ここで初めて木村さんは正式に膵臓がんとの診断名を聞いた。

「T先生から、手術をしなかったらもって半年といわれたときには、なんで俺が、と思いましたよ。おまえ、俺を誰だと思っているんだと、心の中でがんを怒鳴りつけたい気持ちでしたね。にわかには受け入れることができませんでした」

手術は12月6日に決まった。山崎さんができるだけ早く手術を行うよう、病院に何度も働きかけていたことを木村さんはあとで知った。これ以後も山崎さんにはいろいろな形で支えられることになった。

もう1回、故郷でコンサートを開きたい

当日、手術は午前10時から開始された。事前の説明では6時間くらいかかるということだった。だが麻酔から覚めたとき、木村さんが病室の時計を見るとまだ午後1時30分くらいだった。

「ああ、そういうことか」

不思議なくらい冷静にそう思ったという。このときはむしろ真弓さんのほうが動揺していた。

「手術が始まってしばらくしたら、病院から『開腹したが腹膜播種がもう広がっているので、がんは切らずにそのまま閉じるが、それでいいですか』と家族に確認する連絡が入りました。私は、膵臓がんとしてはそれほど大きくなかったので、手術前には割と期待していたんです。切ればなんとかなる、早く切って少しでも体力を回復したほうがいいだろう、と。看護師として膵臓がんの患者さんもたくさん見てきました。私が見てきた限りでは、膵臓がんの手術をして助かった方はいませんでした。でも、自分の家族に限っては、という思いがあったのでしょう。だからすぐ閉じることなど考えもしませんでした。T先生から『もう手がつけられない状態です』と説明されたときは、打ちのめされたような感じでした」(真弓さん)

手術後、真弓さんの顔を見て木村さんは開口一番、いった。

「だめだったな」

それから2人の間でこんな短い会話が交わされた。

「あなた、これから何がしたいの」

「そうだな、もう1回、古川でコンサートを開きたいね」

木村さんは1999年に故郷の古川で、東京ジャズギルドオーケストラを率いて凱旋公演をしたことがある。そのときの記憶が呼び戻されたのだろう。

「死に対する恐怖はありましたが、もう迷うのはよして、やり残したことはないかと自問しました。そして生まれ育った古川で、自分が音楽活動を続けてこられた恩返しをしたいと思ったのです」

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