カンボジアへの支援活動が闘病の支えに
がんと共存しながら、最期まで目的を持って生きる・岡村眞理子さん
岡村眞理子さん
(「カンボジアに学校を贈る会」代長)
おかむら まりこ
1947年生まれ。東京都出身。
1992年、選挙監視のボランティアでカンボジアにいったのをきっかけに、94年、「カンボジアに学校を贈る会」を立ち上げた。
2001年乳がんを発症。
全摘手術を受けるもその後、再発・転移を繰り返し、2004年1月には炎症性乳がんと診断された。
もう悩むのはやめた
「この前、玉川温泉に行ったとき、見るからに頑張っている感じの青年がいました。お食事のとき少しお話をしたのですが、私を見て『よくそんなに笑っていられますね』というんです。でも、笑っちゃうしかないでしょ。まじめに考えたら笑える問題ではないかもしれないけれど、しかめ面して悩んでいてもしようがないですもの。私は鬱になったあと、悩むのはもうやめようと決めたんです。だめならだめ、そのときは受け入れるだけ。ここまで頑張ってやれるだけのことはしてきたのだから、ああいい人生を送ってきたなと思えるんじゃないですか」
そう言って岡村眞理子さんは楽しそうに笑う。3時間近く話を聞いている間もずっと笑みを絶やさなかった。炎症性乳がんという厳しい病気に直面している人とはとても思えない明るさだ。
岡村さんが、左乳房の上の膨らみに気がついたのは、2001年の9月14日のことだった。触ってみると、グリッとした感触がはっきり手に伝わってきた。驚きと不安が瞬間的に交錯した。
この頃岡村さんは更年期障害に似た症状があったため、ホルモン療法を受けていた。医師からはホルモン療法を受けると子宮がんになるリスクが高くなると言われていたので、3カ月ごとに検査を受けていた。ちょうどこの日も検査を受け、何も見つからなかったのでひと安心したところだった。
「すぐ日本に帰ったほうがいいですね」
翌日、診察を受けた医師からはそう言われた。このとき岡村さんはカンボジアの首都、プノンペンにいたのである。医療事情のよくないカンボジアではなく、日本で治療を受けるようにと医師は奨めたのだ。
1992年、カンボジアで国連管理下の選挙が行われたとき、岡村さんは選挙監視のボランティアとして約1年間、現地に滞在した。このときの体験がきっかけで94年に「カンボジアに学校を贈る会」(ASAC)を立ち上げ、代表に就いた。それ以来、岡村さんは頻繁にカンボジアを訪れるようになっていた。
全身に転移の可能性
校舎がないため、
僧院の下を教室代わりに授業を行っている
会は94年に発足。
2004年にNPO法人ASACとして認可される
帰国した翌日、岡村さんは自宅から近い開業医を受診し、大学病院で診てもらうように奨められ、すぐ、G大学病院の外科で診察を受けた。ここでは乳がんにほぼ間違いないということで、すぐに手術日の話になった。医師は、できるだけ早いほうがいいという口振りであった。ただこのときはASACの総会などいくつかの予定があったため、通院で検査を受けることにして手術日を10月29日にしてもらった。それまでの間にも岡村さんは急ぎの用をすませるため2泊3日でプノンペンに行っている。
「乳がんのことを調べる時間もなく、病気のことを考える余裕もないほど忙しかったんです」
左乳房の全摘と再建を同時に行ったため、手術は12時間にもおよんだ。摘出した腫瘍の大きさは5センチ以上。初めてG大学病院を受診したときは3センチ強だったから、わずか1カ月ほどの間に2センチ近くも大きくなったことになる。
術後1週間はベッドの上で仰向けになったまま、じっとしていなければならなかった。そうしないと再建手術で1本1本つないだ血管が詰まってしまうからだ。
「なにはともあれ生きていることが大事ですから、乳房をとったことに対する感傷的な気持ちはほとんどありませんでした」
そういって岡村さんはまた笑い声を立てる。しかしこのとき岡村さんは医師から厳しい宣告をされている。「腋窩リンパ節(わきの下のリンパ節)への転移があり、遊離細胞も認められたので、全身に転移している可能性があります」といわれたのだ。
術後10日目で退院。11月からは6クールにおよぶ化学療法が始まった。最初のうちは副作用がそれほどひどくなかったので、岡村さんは治療の合間に何度かカンボジアに行っている。しかしその後、体のだるさが増していくのと同時に気分が落ち込んでいき、やがて鬱状態になったため、G大学病院の精神科を受診した。
「このまま治らなかったらどうしよう、みんなに迷惑をかけたらどうしようと思うと、緊張と不安で体が萎縮してガチガチになるのが自分でも分かりました、でも抗うつ剤をのんだらスーッと楽になっていきました。鬱になったときはぜひ精神科へいくことを勧めたいですね」
自分が役に立てているという実感
化学療法が終わった直後の02年7月にもカンボジアに飛んだ。日本の太鼓の演奏チームがボランティアで公演することになっていたからだ。真夏のカンボジアは気温が摂氏50度を超すこともある。事実、このときは太鼓のチームでも2人が暑さで倒れている。しかし岡村さんは、「太鼓の音に合わせてみんなと一緒に踊ったりしているうちに、元気になっちゃいました」と、なんでもなかったかのように言う。
「会の仲間たちは私に気遣って日本にいなさいと言ってくれていたのですが、病人としては病室に押し込められていると逃げ場がないんです。這ってでも出ていって外の空気を吸いたいし、自分がまだ何かの役に立てているという実感を持てることのほうが大事だと思うんですよ」
当初の計画では9月から放射線治療を行うことになっていた。だがこれは中止になった。抗がん剤治療で鬱状態になるほどの苦しみを経験したばかりだったし、放射線は食道や肺などを傷つける可能性もあると聞いた岡村さんが、医師に不安を訴えたからだ。
その翌年の9月、岡村さんは親友をがんで失っている。だが悲しみに暮れている暇はなかった。この頃から胸の真ん中に小さなしこりができ、だんだん大きくなっていたからである。放射線に不安を感じていた岡村さんは、このことを医療機器メーカーに勤めている知人に相談した。筑波大学で陽子線治療を行っていることを教えてもらった岡村さんは、すぐに同大学を訪れて相談した。
陽子線も放射線の1種だが、X線やガンマ線と比べると狙った病巣にだけ作用して、それ以外の正常な細胞にはほとんど害を与えない特性がある。
「局所再発で他の再発が見られないから、確実に治せます」
筑波大の医師が言明したので岡村さんはこの治療を受けることにした。ただ陽子線治療はまだ治験の段階だったので、被験者はそのことを了解した上で治療を受けることになる。もちろん岡村さんも同意した。治験だから医療費はかからない。
このとき岡村さんは病院をG大学病院から筑波大付属病院に替えている。陽子線治療の担当者が乳がん専門医にも並行して診てもらったほうがいいと指摘したが、G大学病院の主治医は定年で退官していた。それでこの機会に主治医を筑波大の乳腺外科医にしたのである。
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