知ではなく「言葉のもてなし」を相手に届けたい
2つのがんを体験し、4つの袋を身につけながらも、語り続けるプロの語り部・川島保徳さん
川島保徳さん
(語り部)
かわしま やすのり
1939年、中国大陸に生まれ、終戦後郷里群馬に帰る。
中央大学経済学部卒業。プロの語り部として民話や昔話を口演して回る。
1997年、大腸がん発症。
2000年、膀胱がん発症。
いずれのときも手術で、人工肛門と人口膀胱を造設した。
日本民話の会、民話と文学の会、子供民話の会会員。
人に喜ばれることの喜び
「千葉の高齢者講座にうかがったときのことです。話を終えて事務所で一休みしていたらお婆ちゃんが1人ドアを開けて、『わけえころのおらに会わせてくれてありがとさんな』といってくれました。嬉しかったですネー。思わず、『お金はいりません』っていいたくなりましたよ。いいませんでしたけどね(笑)。だけどほんと、こっちがもらうもののほうが多いんです。人に喜ばれることの喜びというのかな。生かされているんだなーって、つくづく感じます」
ときには声色を使い、まるで民話でも話しているかのような口調で川島保徳さんが語る。そばで話を聞いている奥さんの礼子さんも、ニコニコほほえみながら相づちを打っている。話を聞いているこっちまでホンワカとした空気に包まれてくる。
川島さんは、語り部である。語り部としての活動を始めておよそ40年。礼子さんと一緒に各地を回るようになってからもすでに20年以上になる。ボランティアで民話や昔話を語る人はそれほど珍しくないが、川島さんのように職業として語るプロの語り部は、全国でもそう多くない。
若いころから児童文学が好きで、大学在学中に人形劇団に入った。ほどなくNHK教育テレビの番組で主役級の役を任されるようになった。だが、客のいないスタジオで、カメラなどの機械に囲まれて演じることに、いつしか疑問を持ち始める。テレビ番組だから放送時間の枠がある。そのためもとは30分くらいの物語を10数分に短縮することもあれば、5分の一口話を15分くらいに伸ばすこともある。そうやって本来は単純で素朴な話もどんどん“つくられて”いく。しかも収録日と実際の放送日とは3カ月くらいの時間差がある。だから知人から「あれ見たよ」といわれてもピンとこないもどかしさを感じていた。
「本物が知りたい」
そんな思いから始めたのが語り部だった。
下血を痔と思いこむ
最初は「無料で構いませんから話をさせてください」と、幼稚園や小学校を訪問してまわった。そのうちポツポツと向こうからも招かれるようになっていった。
あるとき訪問した幼稚園に、青森県の三戸郡出身で、きれいな南部弁を話す先生がいた。川島さんが「方言に惚れ込んだ」というその先生が、礼子さんだった。そして1984年からは2人で語り部をするようになった。子供やお婆さんの声は礼子さんが受け持ち、1つの話を夫婦掛け合いのようにして語ることもある。
結婚後は人形劇団を退団し、「川島かたりべ事務所」を開設した。音楽や効果音などを使わない方言を交えた温かみのある素語りは次第に評判を呼び、各地から口演依頼が相次ぐようになっていった。 「月に31回の口演をしたこともあります。北海道のある少年施設に行ったときは、明らかにふてくされている態度の子がいました。
『ガキじゃあるめーし、なんでおれらが昔話を聞かなきゃいけないんだ』というわけですな。しかし語り始めると5分もしないうちに、『オヤッ』という顔つきになる。そしてあとはずっと熱心に耳を傾けている。1時間後、話し終えた私が壇を下りると、その子が握手を求めてきました。今まで大人がまともに話しかけてくることはなかったんでしょう。声をかけることがいかに大切なことかと思いました」
そんな川島さんが下血をするようになったのは1997年のことだ。トイレにいくたびに鮮血が出ることが多くなっていたのだ。
その10年くらい前、川島さんは痔を患ったことがある。そのときは都立病院の診察を受けて手術を勧められた。しかし当時は語り部の仕事のかたわら、フリーで人形劇の仕事もし、テレビのレギュラーも持っていた。「とても休むわけにはいかない」と考えた川島さんは、そのまま放っておいた。出血はいつの間にか治まっていた。
そんな経験があったことから、川島さんはこのときも「また痔が出たんだろう」くらいに考えていた。実際、痔のときと同様、出血以外にはなんの症状もなかったのである。
手術で人工肛門を造設
ところが今回は半年ほどたっても出血が治まらなかった。さすがに心配になった川島さんは、再び同じ都立病院の診察を受けることにした。すると診察後、医師は
「明日ハンコを持って、奥さんと一緒にきてください」と告げた。
翌日、礼子さんと2人で現れた川島さんに医師は、大腸がんであることを告知し、手術が必要なこと、手術ではがんを切除するだけでなく人工肛門を造設する必要があること、入院期間は1カ月くらいになることなどを説明した。
「そういわれて真っ先に思ったのは、仕事のことでした。すでに予定の入っている仕事はキャンセルしないといけないし、仕事ができなくなるとすぐ経済的に苦しくなりますからね。死ぬかもしれないとか死ぬのが怖いとかは、その後の入院中も全然考えませんでした」
それでもやはりどこか動揺したところがあったのだろう。がんの大きさや病期などについても医師から説明はあったはずだが、川島さんは覚えていないという。
川島さんは酒もタバコもやらない。ただ食生活は肉に偏りがちだった。結婚してからは野菜を食べるように礼子さんから盛んにいわれたが、どうしても好きなもの以外は食べようとしないところがあった。大腸がんになる原因として思い当たるものはそれくらいだという。
ともあれ手術は無事に終わり、川島さんは退院の日を迎えた。
「タクシーくらい呼んでくれるのだろう」
川島さんはそう思っていた。ところが礼子さんはリハビリを兼ねて家まで歩いて帰ることを勧めた。約30分の道のりを川島さんは礼子さんと並んで休み休みゆっくり歩いて帰った。別に礼子さんが厳しいわけではない。川島さんは退院の翌日、もう仕事の予定を入れていたのだ。それなのに途中で歩けなくなっては困るからと礼子さんは考えたのだった。
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