食事療法と瞑想で得た「自分のやるべきこと」
がん体験が手弁当で途上国のために奔走する人生を選んだ・北谷勝秀さん

取材・文:崎谷武彦
発行:2005年7月
更新:2019年7月

  
北谷勝秀さん
北谷勝秀さん
(NPO法人2050理事長)

きたたに かつひで
1931年、静岡県生まれ。
30年以上にわたって国際公務員として国連本部で働き、国連人口基金事務局次長を最後に退職。
1994年、NPO2050を設立して理事長に就任し、途上国の人口問題、女性地位向上などに取り組んでいる。
1983年、進行性胃がんを発症し、手術で胃の4分の3を切除した。


潰瘍の真ん中にできた腫瘍

写真:アメリカの友人たちと
アメリカの友人たちと
写真:78年、赴任中のアメリカで義母と
78年、赴任中のアメリカで義母と

1994年、北谷勝秀さんは途上国の人口問題や環境問題、女性の地位向上などに取り組むため、NPO法人2050を設立した。北谷さんが理事長、夫人の昭子さんが理事を務めるこのNPOが現在推進しているプロジェクトは、途上国の女子学生への奨学金事業、シルクロードの緑化、そして循環型の養蚕業確立を目指すエリシルク事業の3つがメイン。数年前にアメリカ支部を開設したこともあり、北谷さんは毎月のように海外を飛び回り、文字通り東奔西走の忙しさだ。

「忙しすぎるくらいですが、宮仕えではないのでストレスは感じません。1度は諦めかけた人生ですから、今はこの活動に全精力を注いでいます」

北谷さんは、1990年まで30年以上にわたって国際公務員として国連で働いてきた。そのキャリアからいくと、NPOで国際的な活動をするのも自然な流れのように感じられるが、ここにいたるまでにはさまざまな紆余曲折があった。なにより大きかったのは北谷さんが「1度は人生を諦めかけた」というほどの、がん体験だった。

1982年暮れ、北谷さんはタイ、ラオスへの約1カ月の出張を終えてニューヨークに戻ってくると、かかりつけの医師のもとを訪れた。出張中、舌の付け根にできた潰瘍がだんだん大きくなり、口をきくのもおっくうなほどになっていたからだ。実は北谷さんはこの1年ほど前から空腹時に胸焼けを起こしたり、不眠気味になったりしていた。とりあえず市販の胃薬を服用していたが、仕事上のストレスのせいだろうと考え、さほど気にしていなかった。

ただこのときは83年早々に国連の代表としてスリランカに赴任することが決まっていたこともあり、念のために診察を受けることにしたのである。

医師の診断は胃潰瘍。タイで香辛料のきつい料理を食べたせいだろうということだった。だが医師が処方した薬を飲んでも潰瘍は一向に治らない。さすがにちょっと不安になった北谷さんは、内視鏡の権威として知られ、ニューヨークで診療所を開いている日本人のS医師にも診てもらった。

検査終了後、S医師はいった。

「潰瘍ができていて、その真ん中に大きな腫瘍があります。細胞を採って検査に回しておきましたが、内視鏡で見ただけでも悪性と分かります。即刻入院して手術すべきです」

3カ月以内に再発の可能性

入院したのは2月。もちろんスリランカへの赴任は中止になった。2月15日に行われた手術では、胃の4分の3を切除。数日後、北谷さんの病室を訪れたS医師は、手術結果についての説明をした。

「がんは胃壁を破ってはいませんでした。でもいくつかのリンパ節を切り取って調べたら、がん細胞がたくさん見つかりました。すでに全身にがん細胞が散らばっている可能性があり、いつ再発、転移してもおかしくない状態です。すぐに化学療法を始めましょう」

S医師の説明によると北谷さんのがんは「とても質の悪いタイプ」で、今までの症例や統計では切除してもだいたい3カ月以内に再発する。再発した場合はもう手術はできず、他の臓器に転移したときは放射線治療で対応する、ということだった。

「ベッドで横になりながらいろいろ考えました。最初のうちは、なんで自分が、とうらみましたよ。おれより悪いことをしている人間はいっぱいいるじゃないか、とね。それから、あとどれくらい生きられるんだ。1年くらいか。どうやって死ぬのだろう、どう生きていけばいいのだろうと考えました。最後は、これが運命なのだからしようがない。医師の指示に従おうと覚悟を決めました。不思議と怖さは感じませんでした」

静脈注射により抗がん剤を1週間連続で投与する化学療法が始まったのは、退院後の3月半ばから。アメリカ人のオンコロジスト(臨床腫瘍医)の診療所に通院して治療を受けた。この化学療法では白血球数が減少する以外、とくに副作用はなかった。抗がん剤の投与後、2~3週間経過を観察し、白血球数が戻ったらまた1週間投与するということを繰り返し、1年間続ける予定だった。

だが、治療はいきなり頓挫した。最初の1週間の抗がん剤投与で北谷さんの白血球数は1200前後にまで減少した。そしてそのまま2週間が過ぎ3週間が過ぎても数値が戻らなかったのだ。

「最初はもう少し様子を見ようといっていた医師のほうがそのうちあわて始めました。『日本人だから特異体質なのかもしれない』なんていって、『栄養をつけて安静にして体力をつけるしかない』というものですから、何とかならないかと聞くと、『がんで死ぬのと肺炎で死ぬのとどっちがいいんだ』といわれてしまいました」

結局、打つ手がないということで化学療法は中断された。このときの心境を北谷さんは「医師に見放されたような気持ちだった」と語っている。

マクロビオティックとの出合い

写真:当時住んでいたベケットの自宅で

当時住んでいたベケットの自宅で。今でもマクロビオティックにもとづいた食事を取り入れている

そんな絶望の淵にいたとき、思いがけぬ出会いがあった。友人の結婚パーティに招かれたときのことだ。リンパがんにかかり、前の年に会ったときは息も絶え絶えだった元国連職員の女性が、すっかり元気になって現れたのである。

「どうしたの、すっかりよくなったみたいだね」

北谷さんが聞くと、彼女はこう答えた。

「マクロビオティックをしているのよ」

翌日、北谷さんはマンハッタン中の本屋を回り、マクロビオティックに関する本を見つけてむさぼるように読んだ。どうやらマクロビオティックとは玄米を主食に有機野菜などを食べる食事療法のようで、精進料理に近いものであることが分かった。「これなら自分にもできそうとピンときた」北谷さんは、国連職員の手も借りてもっと詳しく書いてある本を探し出し、4月から闇雲にマクロビオティックの考え方に沿った食事を始めた。

「それまでは高カロリー、高タンパクのアメリカ的な食事に慣れきって、朝から肉をがんがん食べていました。添加物もずいぶんとっていたでしょう。マクロビオティックは要するにそういうものを食べなければいいというんです。肉も乳製品も砂糖もいけない。もちろん最初のうちは苦痛でした。でも死ぬのはごめんですからね」

北谷さんはこの頃まだ手術の傷が癒えず、よろよろしているような状態で、仕事も休んでいた。だが本に出てきた人名や施設名などを頼りに手当たり次第に電話をかけ、情報を集めた。アメリカでマクロビオティックを普及させている久司道夫さんの弟子がニュージャージーで講演会を開くと知ったときは、病み上がりの身をおして昭子さんと2人で講演を聞きにいった。

「スナイダーという人が話をしたのですが、どれも理屈に合っている。しかも圧倒されるほどエネルギッシュなので、これは信じて実行する価値がありそうだと思い、講演終了後、彼に会いにいきました。そうしたら彼は私の話を聞いてくれた上に、私のための食箋を書いてくれました。マクロビオティックでは1人ひとりに適した食箋を処方し、それにしたがって食事をすることになっているのです」

このときの食箋は、肉も魚も禁止し、しょう油や味噌などもすべて有機材料のものを使うという厳格なものだった。一口200回かむという指示も出されていた。北谷さんは胃の4分の3を切除していたので、食事は1日6回少量ずつに分けてとるようにした。

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