何かに夢中になる。それが余命を延ばすと信じて
乳がん手術直後に世界第8位の高峰マナスルに挑んだ登山家・大久保由美子さん
大久保由美子さん
(登山家、主婦)
おおくぼ ゆみこ
1968年、山口県生まれ。
青山学院大学経営学部卒。
早稲田大学大学院人間科学研究科修士課程修了。
OL生活をしていた1992年から登山を始め、99年にはカナダの登山学校で登山の基礎と語学を学んだ。
これまでにヒマラヤなど多くの高峰の登頂に成功している。
2001年、乳がんを発症し、温存手術を受けた。
その4カ月後にマナスル(8163メートル)への無酸素登頂を敢行した。
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死への恐怖は感じなかった
2001年4月末、医師から乳がんであることを告げられたとき、大久保由美子さんが真っ先に思い浮かべたのは、登山のことだった。翌月には、パキスタンにある8000メートル級の高峰、ナンガパルバッドへ遠征する登山隊に参加する予定でいたからだ。すでに約100万円の費用も払い込んでいた。この前日も徹夜で準備作業をし、ようやくめどがついた矢先のがん宣告だった。
「遠征に行けるのかということしか頭にありませんでしたね」
もちろんすっかり落ち着き払っていたわけではない。診察室の外で待っていた夫の義清さんには「ダメだった、悪性だった」と努めて明るく告げた。しかしそのとき、義清さんがどんな反応をしたかは「自分のことでいっぱいだった」ためよく覚えていないという。何の根拠もなく良性だろうと思いこんでいたから、がんの宣告はやはりショックではあった。
ただ登山家としてヒマラヤ登頂を何度も経験していた大久保さんは、登山仲間やシェルパ(ヒマラヤの高地民族)などの多くの人の死を見てきた。ヒマラヤでは「信じがたいほど死が身近にある」のが現実だ。だから大久保さんには、命には限りがある、人はいつか必ず死ぬ、という意識が自然と身についていた。そのためがんを告知されても、死への恐怖はさほど感じなかったのである。
大久保さんが右の乳房にあるしこりに気がついたのは、その1年ほど前のことだった。登山家はリスクに敏感で、小さな芽のうちにつみ取っておこうとする習性がある。まして大久保さんの場合、母親が乳がんになっていたこともあり、すぐに近所の病院に行って検査を受けた。だがレントゲンだけでは診断がつかず、組織をとってみる必要があるといわれ、今度はがん専門病院を訪れた。ところがそこの医師は組織をとるための針を小さなしこりにうまく刺せず、検査は失敗し、挙げ句に「多分、大丈夫でしょう」というニュアンスのことをいわれた。検査まで1カ月も待たされたこともあり、結局大久保さんはそのまま放っておいた。
入院中も登山の準備
それから1年後、大久保さんは仕事の関係で波動を測る機械とやらを試すことになった。
「私はそういう類のものはあまり信用していないのですが、このときは仕事の場だったので断りにくい雰囲気もありました。そうしたら『右の胸の数値がよくないから気をつけたほうがいい』といわれてしまいました。それでもう1度きちんと検査を受けることにして、都心の大きな総合病院に行ったのです」
機械が異常値を示したことは偶然だったのかもしれないが、その結果が、がんの宣告だったのである。
「あの頃は乳がんにいろいろな治療法があることも、病院によって方針が違うことも知らず、どこでも同じなんだろうと思っていました。だから先生から『1つでもリンパ節に転移があれば全摘にします』といわれたときも、それでけっこう、悪いものは全部とってください、という感じで気にしていませんでした。今振り返ると全摘にならなくてよかったなとつくづく思いますけどね」
大久保さんは自分のことを根本的には楽観的な人間だと考えている。ただ人づきあいにおいては細かいことが気になり、神経質に思い悩む性格だという。
「人間関係でなにかいやなことがあると、3日も4日もそのことが頭の中でリフレインしてしまいます。そういうときはきっと免疫力も低下してしまうんでしょうね。母もそういうところがあり、もしかしたら2人そろってがんになりやすい性格なのかもしれません」
けれども2週間の入院期間中は、がんのことで思い悩んだりはしなかった。5月のナンガパルバッドが無理なら、8月末に予定されているマナスル遠征隊に参加しようと、入院してからも早速そのための準備を始めたほど山のことばかり考えていたからだ。
まずしたことは、マナスル遠征隊の隊長に病床から手紙を書くことだった。自分の病気のことを率直にうち明け、手術後の快復とリハビリが順調にいって、登れるという自信がついたら遠征に参加させてほしいという手紙である。やがて申し出を快諾するという返事が届くと、大久保さんは安心して治療に専念することができた。
猫のように強くなりたい
幸い、がんは1センチほどの大きさの初期のもので転移も見つからず、温存療法による手術で摘出した。医師も「がんは取りきれた」と説明した。
この頃、大久保さんは病院で同室になった女性が取り乱している姿を見て、自身のホームページに「猫のように強くなりたい」と記している。
「人間は病気をすると自己憐憫の感情をおこします。大変な病気になってしまった、私は不幸だと思ってしまうんですね。でも猫に限らず動物は傷を負ったときも自分にシンパシーを感じることなく、ただじっと快復を待ちます。だから私もそういう感情に流されず、動物のように病気を治すことだけに向き合いたい、そういう状態に持っていきたいということです。自己憐憫のような感情を抱いても意味がないし、むしろ逆に病気を悪くするだけだと強く思いました」
退院後はすぐ、リハビリを始めた。最初に取り組んだのはリンパ節郭清をした右腕を自由に動かせるようにすることだった。そのためスポーツ外科でよく知られた病院に通院した。これは予想以上の効果があり、右腕は1~2カ月でずいぶん動かせるようになった。
山に登るときは重量が10~20キロにもなるザックを背負わなければならない。しかし医師からは、脇を締めると浮腫が起きやすくなると注意されていた。そこで自宅から比較的近い丹沢などの山にいき、どのように背負えばいいか実地でシミュレーションしてみた。袈裟懸けにするなどいろいろ試してみたが、結局のところは強く締めないように気をつけるしかなかった。
このシミュレーションはトレーニングも兼ねていた。退院した直後、大久保さんは自転車で買い物に行って帰ってきたとき、足が筋肉痛を起こしていたことに驚いた。2週間の入院でも筋力は衰えていたのだ。そのため登山で使う筋肉を鍛える必要があったのである。
世界第8位の高峰であるマナスルは標高8163メートル。当然のことながら山頂は空気が薄い。そうした低酸素状態に体を馴化させるため、トレーニングの仕上げでは20キロのザックを背負って日帰りで富士山頂に登った。
「私たちの感覚では、富士山は日帰りの山です」
こともなげに大久保さんはいう。
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