希望を持ち続けて憧れのパラリンピックへ
骨肉腫による右足切断を乗り越え、世界の舞台に挑む・佐藤真海さん

取材・文:崎谷武彦
(2005年1月)

  
佐藤真海さん
佐藤真海さん
(会社員)

佐藤 真海 さとう まみ
1982年、宮城県気仙沼市生まれ。
早稲田大学商学部に在学中の2001年、右足首の骨肉腫が発病し、2002年4月、手術で右足を膝下から切断した。
退院し、大学に戻ってからは一時、精神的に落ち込んでいたが、水泳と陸上競技を始めることで克服。
2004年4月、サントリーに入社。
現在、スポーツフェローシップ推進部に在籍。
2004年9月に行われたアテネ・パラリンピックでは女子走り幅跳びに日本代表として参加した。


2004年アテネ・パラリンピック

写真:佐藤さん
「アテネはすごく気持ちよかったし、楽しめました。北京も目指したい」

2004年9月20日、アテネオリンピックスタジアム。南欧の陽光が降り注ぐ巨大な競技場のフィールドに佐藤真海さんは立っていた。世界136以上の国・地域から3800人を越す障害を持つアスリートたちが集ったアテネ・パラリンピック。佐藤さんはこの大会に陸上・女子走り幅跳びの日本代表選手として参加していた。

呼吸を整え、集中力を高めるとゆっくりと走り出し、徐々にスピードに乗り、そして思い切りジャンプする。記録は3メートル95センチ。わずか3センチの差で決勝に進出できず、9位に終わった。

「決勝に出られなかったことが悔しくないわけではありません。でも、9位という結果については、残念というよりはこんなところだろうという気持ちのほうが強いですね。まさか私がパラリンピックに出られるなんて思っていませんでしたから、今回は参加できただけで本当にいい経験になりました。各国のいろいろな選手を見て勉強になりましたし、トップレベルにはまだ遠いけれど、でも決して無理な世界ではないということを肌で感じることができましたから」

穏やかな笑みを浮かべながら、佐藤さんが言う。

まさか自分がパラリンピックに出られるとは……。その言葉にウソはない。右足を失ってから2年5カ月、陸上競技の練習を始めてからわずか1年半で、アテネへのキップを手にしたのだから。

骨が溶けている

写真:チアリーダーズ
早大時代は応援部チアリーダーズ所属。仲間と一体になって応援した

右足首に痛みを感じるようになったのは、2001年の夏がそろそろ終わりを迎えるころだった。運動をすると、足が砕けてしまいそうなほどの激痛が走る。しかし痛みを我慢して佐藤さんはチアリーディングの練習に出ていた。5歳のときに水泳を始め、中学、高校では陸上部で活動した佐藤さんは、早稲田大学に入学すると、応援部チアリーダーズに入った。“スポーツ大好き少女”だったころから、いつかチアリーダーになるのが佐藤さんの夢だったのだ。その夢を実現したばかりだったから、そう簡単に練習を休むわけにはいかない。とりわけこのころは年に1度の晴れ舞台「チアリーディングステージ」を数カ月後に控えていたからなおさらだ。

佐藤さんは「スポーツにケガはつきもの。どうせ捻挫だろう」と考え、テーピングとサポーターでグルグル巻きにして痛みをこらえながら練習に出続けた。だが1カ月たっても2カ月たっても、痛みはひくどころかどんどん激しくなってくる。しかもいつもとは違う、今まで体験したことのないような痛みだった。

「もしかしたら疲労骨折かもしれない」

そう思い始めた佐藤さんは12月にやっと近所の整形外科を訪れた。そして事態は突然、暗転する。

「なんだこれは。骨が溶けている」

レントゲンを見た医師がそう声に出したのを佐藤さんははっきりと耳にした。だが医師はそれ以上の説明はせず、電話で別の病院に連絡を取り、「今すぐそちらに行かせますから」とあわてたような声で言うと、新宿にある大学病院に行くよう佐藤さんに指示した。

ただごとではない事態になっていることは佐藤さんにも感じられた。だが、いったいどういうことなのかはまだ何も分からない。不安で張り裂けそうな気持ちをおさえながら、佐藤さんはレントゲン写真を持って大学病院へと急いだ。けれども大学病院でもはっきりした病名は言わず、「専門病院での受診」を勧められただけだった。

「専門病院って、なんですか」

佐藤さんが質問すると、医師からはこういう答えが返ってきた。

「たとえば、がんセンターとかです」

この日、帰宅してから仙台の実家に電話をした佐藤さんは、母親のえり子さんの声を聞くととうとうこらえきれず涙声になった。「がんかもしれない」という不安が胸のなかで渦巻いていたのである。

右足切断の宣言

翌日、急きょ上京してきたえり子さんとともに再び大学病院を訪れた佐藤さんは、その足で築地の国立がん研究センター中央病院へと向かった。すでに大学病院から連絡がいっていたのだろう、がんセンターでは受付をすませるとそのまま入院病棟に案内された。

「細胞を取って検査しないと断定はできませんが、おそらく骨肉腫でしょう」

診察室で待ち受けていたY医師は、レントゲン写真を見ながらそう言った。

「骨肉腫という病名すら初めて聞くものでしたので、そのときはどれくらい深刻なことなのか分かっていませんでした」

けれどもその後のY医師の説明を聞くうち、佐藤さんの気持ちはどんどん沈んでいくことになる。

骨肉腫とは骨にできるがんであること。膝の周辺に発症する例が多いこと。手術の前後に化学療法を行うので、治療期間は9カ月ほどかかること。ていねいに説明していったY医師が最後に発した一言で、佐藤さんの心は凍りついた。

「治療がすべてうまくいっても、右足は残せないでしょう」

「まさか、ウソでしょう、って、心のなかで叫びました。そんなことが本当にあるのか信じられなくて、目の前が真っ暗になりました。足がなくなる。泳ぐことも走ることも、チアリーディングもできなくなってしまう。それまでなによりもスポーツに生きがいや喜びを感じてきた私が、スポーツを失って、生きていくことができるんだろうかと考えたら、涙がわっとあふれてきました」

スポーツが大好きで、チアリーディングに熱中している、もうすぐ20歳になる女性にとって、それはあまりにも残酷な宣告だった。

必ず大学に戻ってくる

入院したのはクリスマスイブの日だった。その前の2日間、佐藤さんは松葉杖をつきながら、大学のゼミのクリスマスパーティー、チアリーディングの練習場、そしてチアリーダーとして応援してきた野球部の練習場を訪れている。自分の口で、自分の言葉で病気のことを説明するためだ。

ひたすら気丈に振る舞い、笑顔を浮かべながら佐藤さんは大切な仲間につらい報告をした。そして最後にこう付け加えた。

「病院の先生は、義足をつければなんでもできると言っていました。だからチアもまたできるかもしれません。つらいけど、ここに戻ってきたいので頑張ってきます」

もう一度、必ず大学に戻る。その思いがこのころの佐藤さんを支えていたのである。

けれども入院してすぐに始まった抗がん剤治療による副作用は、ときとしてそんな思いを挫けさせそうなほど過酷なものだった。5日間連続で点滴を打ち、数日間おいてまた5日間の点滴という繰り返し。そのたびに佐藤さんは激しい吐き気と倦怠感に全身を苛まれた。

「ぐったりしてテレビも見られないし、人と話をする気にもなれませんでした。イライラするだけのパワーもなくて、とにかく耐えるだけでした」

抗がん剤の治療が終われば病気が治るというのなら、希望も持てる。だが、抗がん剤の治療のあとには手術が控えている。そしてその手術では、右足を切断することになる。

つらさを乗り越えたら、またもっと大きなつらさが待ち受けているのである。

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