患者の心に寄り添うボランティアを医療現場に
がん体験が患者を置き去りにしない医療の大切さを教えてくれた・今井俊子さん
今井俊子さん
(日の出ヶ丘病院ボランティア・コーディネーター)
いまい としこ
1938年、沼津市生まれ。
国立療養所久里浜病院付属看護学校卒業。
日本大学文理学部(哲学専攻)卒業。
看護師として川崎市立病院に勤務した後、聖隷学園浜松衛生短期大学講師、佼成看護専門学校講師、東京女子医科大学看護学部助教授などを歴任し、2001年4月から現職。
乳がん患者会「新樹の会」会長。
著書に『病と闘う心』(1986年・メヂカルフレンド社)、『ホスピス病棟に生きる』(1997年・文化創作出版)などがある。
採用から教育まで一手に引き受ける
忘年会でボランティアさんと。くつろぎのひととき
東京・西多摩郡にある日の出ヶ丘病院には現在、行事ボランティアが約60人、病棟ボランティアは約40人が登録をしている。病棟ボランティアは週1回、1日3時間以上活動するのが原則で、なかには車で片道1時間半かけて通ってくる人もいる。病室の花瓶の水を換えたり、お茶のサービス、マッサージ、車椅子での散歩、清掃等々、活動内容は多岐にわたっている。しかしこれらの活動はいわば手段であって目的ではない。ここの病棟ボランティアは、患者と話をしながら傾聴のところまで持っていくのが基本的な目的だ。
もちろん初対面の患者といきなり親しくうち解けて話ができることなどめったにない。まして傾聴となれば、両者の間に信頼関係ができていないと難しい。だから花瓶の水を換えたり散歩をしたりすることで、話をするきっかけをつくるのである。最初は雑談をしていて、患者が心の内を語り始めたらそこから傾聴に切り換えていく。
そのためにはボランティアが患者と触れ合う機会がなければならない。だから日の出ヶ丘病院では、ホスピス病棟であってもボランティアは自分の判断で病室に入ることができる。病室に入ったら、一人の患者と1時間以上話をすることもあるという。
しかしそうなると、ボランティアが不用意な発言をしたりプライバシーに立ち入ったりして患者の気持ちを傷つけてしまう危険性もある。病状に関することなど患者の個人情報が外部に漏れる心配も出てくるだろう。末期がん患者が残り少ない時間を穏やかに過ごすための施設であるホスピス病棟の場合、とくに細心の注意が必要だ。
「だからそうしたトラブルをおこさないようにするために、私がいるのです」
日の出ヶ丘病院でボランティア・コーディネーターをしている今井俊子さんがいう。
「ボランティアの応募者には私が面接をしますし、実際の活動に入る前にまず守秘義務や感染事故防止を中心にしたオリエンテーションも半日かけて行います。活動を始めてからも4カ月間は基礎教育期間として細かく指導しますし、ボランティア全員を対象にした継続教育も毎月1回実施しています。ホスピスの場合、私は毎朝開かれるカンファレンスにも出席し、それぞれの患者さんの病状や背景も把握していますから、重篤な状態になった患者さんなど、病室に入らないほうがいいと判断したときには、ボランティアにそうした指示を出します。だからこれまでに深刻なトラブルが起きたことはありません」
原点にあるのは自らのがん体験
ボランティア・コーディネーターはまだ一般に馴染みの薄い職種だが、ボランティアの募集や採用から教育、活動プラン策定や人員の配置の決定など、ボランティアに関わることすべてを担う仕事である。活動内容や人数にもよるが、コーディネーターがいなければボランティアは導入できないともいわれる。コーディネーターの適任者がいないため、ボランティアを入れたくても入れられない病院もある。
日の出ヶ丘病院にはホスピス以外に療養型病棟などもあるが、今井さんは病院全体のボランティアのコーディネーターをしている。しかも常勤・専任で、病院の正規の職員である。これは全国の病院でも極めて珍しいケースだ。
今井さんが日の出ヶ丘病院のボランティア・コーディネーターになったのは、講演のために同病院を訪問した際、直感的に「ここで仕事がしたい」と思ったのがきっかけだった。
「最初、受付に声をかけたらとてもにこやかに対応してくれたんです。廊下などですれ違う職員も皆、向こうから先に声をかけて挨拶してくれました。それで、この病院は私が入り込めそうだと思ったのです。これからホスピス病棟ができるということで講演をお願いされたのですが、ホスピスができるならボランティアも入るだろうからコーディネーターも必要になるだろうと考え、ぜひここで働かせていただきたいと理事長にお願いしたのです」
今井さんは病棟勤務の看護師を経て、看護学校や大学の看護学部で教鞭をとるようになっていた。初めて日の出ヶ丘病院を訪ねたときも、東京女子医科大学看護学部の助教授だった。ただそのずいぶん前から医療現場にはボランティアが必要だと考えていて、自分でもホスピスでボランティアをしてきたりした。その原点にあったのは、自らのがん体験だった。
20年前の乳がん手術で胸筋まで切除
1984年5月。今井さんは入浴中に偶然、右乳房にあるしこりに気がついた。大きさは2センチほど。2日後、病院の外来を受診し、6月に入院した。このとき、今井さんは看護専門学校の講師を務めていた。入院したのはその学校と同じ系列の病院である。だからその病院には今井さんの教え子だった看護師もたくさんいた。それを承知であえて今井さんは、「自分を教材に提供しよう」という思いでこの病院を選択したのだった。
このときの闘病の経過を、今井さんは著書『病と闘う心看護者から看護者へのメッセージ』に詳しく書いている。それを読むと今井さんは驚くほど冷静に自分の病気を受け止めている。もちろんまったく動揺がなかったわけではないし、最初にしこりに気がついたときは「冷や汗が出て、目の前が真っ白になった」そうだ。それでも今井さんは「がんと診断されたときもそれほどのショックはありませんでした」という。
「私には、乳がんの手術を受けてすっかり元気になった叔母がいました。身近にそういうお手本がいましたから、自分も手術さえ受ければ元気になれると思っていたんです。それに手術のあと、早期のがんでリンパ節にもどこにも転移していなかったと先生から聞いていましたから、死に対する不安もほとんどありませんでした。実際、退院後は一番軽い抗がん剤とホルモン剤を3年間服用しただけです」
大変だったのはむしろがんそのものよりも手術の後遺症だった。というのも今井さんはこのとき、右乳房だけでなく胸の筋肉や右脇の下のリンパ節まで切除するハルステッド法(定型的乳房切除術)による手術を受けていたからである。今でこそ早期の乳がんなら乳房温存療法を採用するのが普通だが、20年前はハルステッド法が標準治療だったのである。そのため今井さんは手術後、激しい痛みに苦しめられることになる。しかもその痛みに耐えながら右腕と右手を動かすリハビリにも取り組まなければならなかったのだ。
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