今は“おまけの人生”を思う存分楽しんでいる
がんをくぐり抜けたとき、本当に大切な自分が見えてきた・種川とみ子さん
種川とみ子さん
(画家)
たねかわ とみこ
1944年、東京都生まれ。
学生時代には油絵を専攻。
21歳で結婚。絵をやめて琴の教師をしていた義母の生徒になる。
30歳のときに子宮頸がん、37歳のときに胃がんを発症。
その後、再び絵筆を取り、現在、どこの団体にも所属せずに画家としての活動を続けている。
遺影のつもりで撮った家族写真
種川とみ子さんの自宅には、大きなパネルに引き伸ばした1枚の写真がある。写真館で撮影したその写真には、種川さん自身と夫の真一さん、それに2人の娘の一家4人がそろって映っている。撮したのは20年以上前。今ではカラーがすっかり色あせてしまいセピア色のようになっているが、4人がカメラ目線で笑みを浮かべている様子は、幸せな家族そのものだ。
「このときは最初、家族4人でファミリーレストランに行って食事をしたんです。前から憧れていたんですよ、4人でファミレスにいくことに。義母と同居していたので、4人で外で食事をすることがそれまではほとんどありませんでした。いつもはケチケチしたことばかりいう私が、この日に限って何でも好きなものを食べていいなんていったものだから、子供たちは今でも『あのときのことは忘れない、何か変だったもの』といっています。写真館にいったのは食事してからです。あとにも先にも家族そろって写真館で写真を撮ったのは、このときだけですね」
その頃のことを懐かしそうに振り返りながら、種川さんはいう。しかし幸福そのもののように見えるこの写真を撮っていたとき、種川さんの心の中には暗い不安が渦巻いていた。自分ががんであることを知り、もしものときのことを考えて記念に撮ったのがこの写真だったのである。遺影のつもりで撮った家族写真というわけだ。
「だから胸がいっぱいで、自分がこのとき何を食べたかは全然覚えていませんよ」
当時、37歳だった種川さんは、しばらく前からときどき胃が痛むのを感じていた。空腹になると、まるで胃がやけどしたように痛むのだ。それでも前年の11月に受けた健康診断では何も問題がなかったので、そのうち治るだろうと気楽に考えていた。だが、5月になると体重がどんどん減っていった。そしてある日、パートの仕事をしているとき、とうとう耐えきれないほどの痛みになり、近所の医者に駆け込んだ。すると精密検査をしたほうがいいと勧められ、成田にある大病院を紹介された。そこで内視鏡検査を受けると、担当医から家族を呼ぶようにいわれた。
「主人がきてから説明がありました。胃潰瘍だけど、放っておくとがんになるかもしれないから早く手術したほうがいいと先生はいうんです。それでなんだか変だなと思いながら、どうせ手術するなら、昔からよくかかっていた実家のそばにある病院でしてもらいたいと思い、紹介状を書いてほしいとお願いしたんです。その頃はまだ実家の母が健在でしたので、そこの病院なら入院中も母に面倒みてもらえますからね」
「絶対に死なない、死ぬわけにいかない」
再発・転移の文字も頭から離れなかった
紹介状を受け取って帰宅すると、種川さんはどうしても正確な病名が知りたくなった。そこで封筒の糊付けされているところに蒸気を当てて、破れないように注意しながら開封した。けれども病名などについて書かれているところはドイツ語に英語が混ざった文章で、何と書いてあるのかさっぱり分からない。そのため種川さんは学生時代にドイツ語を専攻していた友人に電話をして訊いてみることにした。ドイツ語のスペルを伝えると、友人から受話器を通してこんな答えが返ってきた。
「あ、それは胃がんだよ。誰のことなの、あなたのお母さん?」
その病名には末尾に「Ⅱ」という数字がつけられていた。それが胃がんの2期を意味していることは、もう友人の説明を聞くまでもなかった。
実は種川さんは30歳のときにもがんを経験している。次女を出産した翌年に不正出血があり、病院で子宮頸がんと診断されたのだ。
「まだ子供が小さいのに、絶対に死なない、死ぬわけにいかない」
病名を告げられたとき、種川さんは反射的にそう思った。幸い最も早期の0期だったので、きちんと治療すれば完治するということだった。治療法について種川さんは正確なことを覚えていないが、医師が「焼く」という言葉を使って説明していたという。そうだとすればおそらくレーザー治療を受けたのだろう。
「だからこのときはそれほどショックではありませんでした。でも、もしもということもありますから、治療が終わってからは“思い出づくり”にと思って家族で温泉に行ったり旅行したりしたんですよ」
生き直すきっかけを与えてくれた医師の言葉
幸い、その後、転移も再発もなかった。それから7年がたち、もう大丈夫と思っていた矢先に今度は胃がんを宣告されたのだった。
「ただの胃潰瘍のわけがないと思っていましたから、胃がんだと知ったときは、ああ、やっぱりという感じでした。むしろ主人のほうがショックを受けていましたね。私はこのときも絶対に死なないと思っていたので、娘たちには『おりこうさんにしていたら、ママすぐ帰ってくるから、あなたたちも頑張ってね』っていったんです」
実家の近くにある病院で受けた手術では、胃の5分の4を切除した。術後の経過は順調だった。だが、このときの入院が種川さんに転機をもたらすことになる。
入院中のあるとき、主治医が種川さんの病室にきてこういった。
「あなたは内臓がとても弱いが、もっと生きたいですか」
もちろん「生きたい」と答えると、医師はさらに続けていった。
「生きたいのなら、もっと自分に正直になりなさい。人にばかり気を遣わず、笑いたいときは笑い、泣きたいときには泣き、やりたいことをやりなさい」
この医師は種川さんが結婚する前からときどき診てもらっていた人だった。だから種川さんに何か鬱屈したものがあると感じ取っていたのかもしれない。
「ちょうどその頃、そろそろ退院してもいいという時期になったら、また具合が悪くなるような気がして、家に帰りたくないという気持ちがわき上がってきたんです。家での生活に何か息苦しさを感じていたんでしょうね」
種川さんは21歳で結婚した後、真一さんの母親と同居した。義母は種川さんに対して理解のある人だったという。
「だから、よくある嫁・姑の関係にはなりたくなかった。それでどうすればいいのかと考え、義母が琴の先生をしていたので私もそのお弟子さんになることにしたのです。先生と弟子という関係であれば、私も義母を尊敬するようになりますから、嫁・姑の関係にはなりにくいだろうと考えたのです」
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