「がん患者を支えることが私の生を支えている
多重がんを乗り越えて、――土橋律子さん
土橋律子さん
つちはし のりこ
1955年 長野県生まれ
1976年 千葉大学医学部附属看護学校卒業、同大附属病院勤務
1994年 支えあう会「α」設立
2000年 生命をささえる研究所設立
土橋律子さんの闘病歴
1989年10月 子宮体がん
1991年3月 卵巣がん
1991年8月 腸閉塞
1992年1月 大腸がん
2年有余に及ぶ壮絶な闘病の日々
涙が一筋、頬をつたって落ちた。無理につくり笑いをしようとして、自分の顔がこわばっているのがわかった。それでも心の中で懸命にいい聞かせていた。「みっともない、私は看護婦なんだ」と。
1989年10月。千葉県がんセンターの婦人科病棟で、土橋律子さんは医師から病名を告げられていた。
子宮体がん。
スポーツが好きで、健康に自信があり、当時まだ34歳だった土橋さんにとってその病名は大きな衝撃を与えた。勤務した病院に立ち寄ってから1人住まいのアパートに帰った土橋さんは、まさに茫然自失の状態であった。
体の変調はその年の春頃から感じていた。生理の周期が長くなり、体がだるい、風邪を引きやすいなどの自覚症状があったのだ。しかし初めて病院を受診したのは9月の末。前年に千葉大学医学部附属病院眼科病棟の副師長(この頃はまだ副婦長といっていた)になっていた土橋さんは、看護部の中間管理職として忙しい毎日を送っていた。体の調子が悪いといっても、看護師としての業務に差し障るほどではない。そんなこともあって病院にいくのを延ばし延ばしにしていたのである。
だが、告知を受けてしまえばもう先延ばしすることも後戻りすることもできない。この日から2年有余に及ぶ土橋さんの壮絶な闘病の日々が始まった。
卵巣がん、腸閉塞、そして大腸がん
内視鏡検査で発見された子宮体がんは比較的初期のもの。リンパ節への浸潤はあったものの他臓器などへの転移はなく、11月の手術は無事終了。術後も周囲が驚くほどの快復ぶりで約2週間後には退院となった。12月からは職場復帰も果たしている。
だが、それから約1年後の1991年1月、土橋さんを再び病魔が襲う。年明け早々から続いていた下腹の痛みがだんだんひどくなり、再び県のがんセンターを受診。2月末に入院し、卵巣がんと診断された。
3月の手術で卵巣摘出。このとき直腸付近にもがん細胞があったため、術後には化学療法が行われた。当初は週に1回で全10回、その後2年間にわたって内服を続ける計画だった。ところが化学療法を始めると副作用が激しかっただけでなく肝機能障害なども併発したため、主治医は治療計画を変更。放射線治療に切り換えた。これがまた思いがけない事態を招く。一時は退院し、外来で通院していたが、やがて腸閉塞を発症してしまったのである。そのため8月に3度目の入院。9月に手術が行われた。このときの腸閉塞は、放射線治療の副作用である可能性が高かった。
腸閉塞の手術後、土橋さんはまた仕事に復帰した。だが腸閉塞の手術から3カ月もしないうちに今度は下腹部全体に痛みが発症。下血もあり検査を受けると大腸がんが発見されたのである。上行結腸の1・5センチ×1・5センチほどの扁平ながん。内視鏡で切除できたため、術後8日で退院することができた。
初めて本当にわかった患者の気持ち
土橋さんの場合、卵巣がんも大腸がんも転移性のものではなかった。その意味では不幸中の幸いといえるかもしれない。しかしそれにしても2年3カ月ほどの間に3つのがんを発症し、腸閉塞も含めて4度もの手術を受けたのだから、凄絶な闘病体験であった。そしてこの体験は、土橋さんの心や体、生活にさまざまな変化をもたらしたのである。
まず挙げなくてはいけないのは、自分ががんになり入院したことで患者の気持ちがよくわかるようになったことだ。
「自分が看護師をしていて、いかに患者さんのことがわかっていなかったかということを思い知らされました。患者さんのことをわかっていると思いこんでいた自分は、なんて傲慢だったのだろうとつくづく思いましたね」
そういって土橋さんはその頃のことを振り返る。
土橋さんは4度の入院中に数多くの患者と出会った。土橋さんと同じようながんの患者も多かった。そうした患者のなかには、土橋さんの仕事が看護師だと知ると、悩み事を相談したり病気や医療に関する質問をしてくる人もいた。そうした人々のことを土橋さんは“患者仲間”と呼んでいる。
「そういう仲間から、生活や生き死に関わること、病状の変化やそのときどきの本音などいろいろ聞いているうちに、一番大事なのは人間を見ることなのだと思うようになりました。その人が何を考え、何を大事にしながら生きたいと思っているのか、それを知ってサポートしていくのが医療の本来の役割ではないかと気づいたのです。そして自分も含めてそういう役割を果たせていない医療のあり方に、強い危機感を持つようになりました」
退院した途端になくなる医療のサポート
入退院を繰り返し職場復帰するたびに、土橋さんは周囲にそういう思いを伝えた。自分の体験や見聞きした患者の本音などについて、同じ職場の医療者たちに話す機会を提供してほしいと病院側に訴えたこともある。しかし病院側は、「余計なことをしてくれるな」といわんばかりの対応だった。
もう一つ、闘病体験を通じて土橋さんは、退院後の患者に対する医療のサポートがほとんどないことも痛感した。
退院した患者仲間が心配事や悩み事の相談で電話をかけてくる。医者や看護師にはなんとなく聞きにくい。「先生には、そんなこともわからないのですか、と怒られそうだし、看護師さんたちはいつも忙しそうで声をかけにくい」、そういう患者仲間の言葉を何度も耳にした。土橋さん自身も同じようなことは感じていた。
「どこへいっても保険で診療が受けられる、日本の医療ほどネットワークが整ったところはないと思います。ところがそういう安心、安全の保証が、退院するとなくなってしまうのも日本の医療です。しかも退院したあと外来で病院にいくと、いいたいこともいえなくなってしまいます。何か言うと、そんなの当たり前、気にしすぎ、様子を見ましょうとかいう言葉ばかり。再発や転移を防ぎ、長く生きられるのかという不安を抱えた患者側と医療側との間のギャップがあまりにも大きすぎます」
自助グループ 支えあう会「α」を設立
支えあう会「α」の5周年記念シンポジウムの一こま
「α」の親睦旅行。鎌倉の大仏の前で
そもそも医療者は、退院後の患者にはあまり関心を払わなくなってしまうところがある。それは看護師としての自分を振り返ってみても当てはまることだった。
これではいけない、看護師としての自分にできることが何かあるはず――。
そういう思いから土橋さんは機会があれば看護学校での講義などで自分の考えを伝えていた。そして1994年には、患者仲間などに呼びかけ、がん患者の自助グループ「支えあう会『α』」を立ち上げた。この会は現在も、月1回の定例会、毎月第1・第3水曜日のがん電話相談、会報「α通信」の発行(年4回)などの活動を続けている。99年の6月には創立5周年を記念するシンポジウムを開催し、約350名が参加するなど確実にその活動の輪を広げている。
一方で土橋さんは1996年3月、20年間勤めた千葉大学医学部附属病院を退職している。しかしこれは決して看護師という仕事がいやになったからではない。
闘病中の91年2月末から92年11月末までの1年9カ月間、土橋さんは病院を休職している。その間、患者仲間との交流や自分の体験を通じて医療のあり方、看護のあり方に多くの疑問を持ったことはすでに触れたとおりだ。しかしその後は92年末に職場復帰している。話を聞いているとわかるが、土橋さんは看護という仕事、弱っている人、苦しんでいる人をケアし支えることが大好きなのだ。
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