乳がん手術を体験して、痛感するのは「術後外来」システムの必要性
2度の危機、そして沖縄との出会いが脚本家に新しい道を切り拓かせた
高木凛さん
作家・脚本家
沖縄懐石「赤坂潭亭」主人
たかぎ りん
東京都出身。
出版社勤務を経て、80年代後半からテレビ・ラジオの脚本家として活躍。
「黄色い髪」(NHK)、「息子よ」(TBS)などを手がけ、「父系の指」(TBS)では94年度ギャラクシー大賞を受賞。
その後、乳がんの手術後に再訪した沖縄に魅せられ、東京・赤坂に沖縄懐石「赤坂潭亭」を開き、主人となる。
2度目の手術後に書き下ろしたノンフィクション『沖縄独立を夢見た伝説の女傑 照屋敏子』で07年8月に第14回小学館ノンフィクション大賞を受賞した
がんにまつわるドラマのシナリオを何本も書いてきた脚本家が、ある日突然、乳がんを宣告され、奈落の底に落とされた。高木凛さんである。
手術後、心身の活力を取り戻せない高木さんは、救いを求めるように沖縄を再訪した。沖縄で伝統の家庭料理に魅せられ、がんとの闘いの中で、沖縄懐石の店を開いた。店が軌道に乗り、がんも克服できたと思ったころ、乳がんが再発した。
焦燥感にさいなまれる高木さんを救ったのは、またも沖縄であった――。
口をついて出た言葉は「セカンドオピニオンを」
「再発を生きる」という演題で講演する高木さん
それは平成7年の夏のことだった。「ちょっと来ていただけませんか」、かかりつけの病院から電話が入った。高木さんは当時、年に1回人間ドックに入っていた。例年なら、結果は郵送されてくる。「何だろう?」、不審に思いながら、病院に向かった。
写真を見せられ、「乳がんの精密検査をしましょう」と言われた。高木さんは一瞬狼狽したが、努めて冷静に「そうですか。では、いくつかセカンドオピニオンを得たいと思います」と言い、検査結果の資料を受け取って病院を後にした。
当時、セカンドオピニオンを求めることは、まだ一般的ではなかった。高木さんが即座にセカンドオピニオンを求めることを決断できたのは、脚本家として、それまで何本もがんにまつわるドラマを書き、がん治療について一応の知識や情報を身に付けていたからだった。
たとえば、平成元年10月から平成2年2月にかけて、5回にわたって放映された東芝日曜劇場「息子よ」は、小児がんにかかり、余命いくばくもないと宣告された息子とその両親の、苦悩に満ちた日々を真正面から描いたドラマだった。父親役は滝田栄さん、母親役は原日出子さんが演じた。
高木さんは脚本を書くにあたり、小児がん病棟に通って、子どもたちやその家族を丹念に取材し、わが子を小児がんで失った両親の話も聞いた。また、末期の患者に対して行う死の教育(デス・エデュケーション)の先進国であったイギリスから、そのプログラムを取り寄せて研究もした。
その結果、高木さんは、息子の最後の半年間を、家族3人が精一杯生きるために、父親に会社を辞めさせ、3人が力を合わせて山の中に球体のログハウスを作る、というドラマに仕立て上げたのだった。
脚本を書くうえで、がんと何回も格闘した経験を持つ高木さんには、自分はがんについてよく知っているという思い込みがあった。だからこそ、「セカンドオピニオン」という言葉も口をついて出た。「誤診であってほしい」という思いもあったのかもしれない。
冷静を装い、「セカンドオピニオンを得たいと思います」と言って病院を後にした高木さんだったが、帰り道、訳もなく涙が流れてやまなかった。1人になってみると、それまで自分が身に付けてきたがんの知識はたんなる知識でしかなく、実際にわが身に降りかかってきた現実を前に、高木さんは茫然と立ち尽くすほかなかったのである。なぜか弱い自分をさらしたくないという強がりもあって夫にも言い出せず、高木さんは自室にこもって泣き崩れた。
近藤誠医師の診察受け乳房温存手術を受ける
高木さんはセカンドオピニオンを求めて、朝早くから病院を訪ね歩いた。どの病院でも結果は同じだった。しかも、悪いことに、がんは乳頭部分にできており、再発を防ぐためには全摘手術しかない、という診断であった。
最悪の診断結果に、高木さんは愕然とした。天にもすがる思いでさまざまな情報を求めた。女性のがん患者の集まりに参加し、闘病中の女性たちの話を聞いた。アメリカの女性ジャーナリストのがん闘病記も読んだ。インターネットでアメリカのがん情報にアクセスし、アメリカでは乳がんの手術は温存療法が主流であることも知った。
そんなとき、高木さんは1冊の本に出会う。慶應大学病院医師の近藤誠さんが書き、当時ベストセラーになっていた『患者よ、がんと闘うな』である。巻を措く能わず、一気に読んだ高木さんは、最先端の先生に診てもらいたいと、紹介状も予約もないまま、翌朝1番に慶應病院に駆けつけ、放射線科の診察室に並んだ。
売れっ子の近藤さんの診察を受けたいと、全国からがん患者が殺到しており、なかなか順番が回ってこない。時計はいつしか正午を回り、院内の食堂で軽い食事を摂った。待つこと6時間、やっと名前を呼ばれた高木さんは、近藤さんの前の椅子に座り、これまでの診断の資料を見せた。
近藤さんはサッと資料を一瞥し、「もう1回、検査を受けてください」と言った。検査する病院は慶應病院の周辺に分散していた。高木さんがタクシーを乗り継いですべての検査を終えたときには、夏の遅い夕闇が迫っていた。
検査結果の資料を持って診察室へ戻ると、まだ多くの患者が待っていた。近藤さんは資料を見るなり、「手術しましょう。どこでなさってもいいですが、ご紹介はします」と告げた。わずか数10秒の診断だった。ちょっとやりきれない思いを抱いたが、後ろに控えている多くの患者を思って、高木さんは「お願いします」と頭を下げ、診察室を出た。
近藤さんの診察を受けた数日後、大船の病院で手術を受けた。乳がんと告知され、手術を受けるまで、さまざまな情報や知識を得る過程で、高木さんは「自分に素直になろう」と心に決めていた。だから全摘手術ではなく温存手術を選択した。幸い手術は成功し、乳房は温存された。
手術は成功したものの、高木さんにとってつらい日々が続いた。術後の治療の苦しさ以上につらかったのは、義母を胃がんで、義父を肺がんで、相次いで亡くしたほか、実兄が他界し、さらに親友を乳がんで失ったことであった。つい先日までともに語らい笑っていた親しい人たちが、ふっと目を閉じ冷たい骸になっていくのを、続けて目の当たりにした高木さんは、その現実を自分に重ねて、悶々とした日々を送らざるを得なかったのである。
再訪した沖縄に魅せられ沖縄懐石の店をオープン
象のような岩が特徴的な万座毛
沖縄に魅せられて高木さんが開業した「赤坂漂亭」
術後の放射線治療、抗がん剤治療のフルコースを終えても、高木さんの身体に活力はみなぎってこなかった。無理にでも仕事を再開すれば、それがきっかけとなってエネルギーが復活するかもしれないと、仕事を引き受けてはみたが、思うようにはいかなかった。
真夏のある日、その苦しさから逃げ出すように新宿の雑踏に出て、高野フルーツパーラーに入った。2階から窓越しに通りを行き交う人々を眺めた。真夏の昼下がり、白い道路に行き過ぎる人たちの真っ黒い影が映っている――。その瞬間、かつて仕事で訪れた沖縄の湿った熱い風がよみがえった。
団塊世代である高木さんは、学生時代に「政治の季節」を体験した。当時の学生運動の2大テーマが「ベトナム反戦」と「沖縄返還」だった。占領下にある沖縄の人たちの苦悩を思いやり、沖縄の早期返還を心から願った。だから、高木さんにとって、沖縄は返還後も、観光に行くところではなく、心の中でその幸せを願う遠い存在であった。
脚本家になって程なくのころ、沖縄を舞台にした仕事が来たとき、高木さんは初めて沖縄を訪れた。夏の盛り、飛行機から降り立つと、もわっとした暑い空気に包まれた。沖縄はホコリっぽく、風さえも湿っていた。那覇の料理も口に合わず、ホテルにこもって和食やイタリアンに逃避した。そのときは、暑さと脂の強い食べ物に胃が参ってしまった。
仕事から逃げるようにして、高野フルーツパーラーにやって来て、2階から雑踏を眺めているとき、なぜかその沖縄の熱い風がよみがえったのである。東京でこんなにキリキリして書けないのなら、いっそ沖縄に行ってみよう。場を変えれば、何かが変わるかもしれない。高木さんは翌日、当てもないままに那覇行きの機上の人となっていた。
民宿を拠点にして、人生で初めて予定のない時間を過ごした。沖縄の島々を巡り、祭りや神事を見て歩くうちに、沖縄には素朴な自然信仰が残っていることに気づいた。古来、沖縄の人たちが海のかなたに神々の住む島があると信じ、その楽土を「ニライカナイ」と呼んで信仰してきたことも、その旅で知った。
また、沖縄の島々で素朴な家庭料理に接しているうちに、これは那覇で出される沖縄料理や、東京の居酒屋で出される沖縄料理と違うことを実感した。そして、その素朴な家庭料理が自分の身体に合うような気がしてきた。 高木さんは、前回の訪問が沖縄の上っ面を撫でただけに過ぎず、沖縄の本当の佇まいを自分は何1つ知らなかったことに気づき、恥じた。高木さんのなかに、いつしか、沖縄をもっとじかに触ってみたい、食の世界で沖縄とかかわってみたい、という気分が生まれていた。
沖縄ひとり旅から帰京した高木さんは、何ものかに突き動かされるようにして、沖縄料理の店づくりに奔走する。商工会議所に飛び込んで店づくりを相談し、担当者のアドバイスで店づくりの講座も受講した。1度は青山に店を出そうとして直前に挫折し、大変な思いをしながら、「沖縄と大和の出逢うところ」を旗印に、赤坂に沖縄懐石「赤坂潭亭」をオープンしたのは、乳がんの手術から3年目、平成10年のことだった。
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