「絶対泣かない」と心に誓い、膵がんと闘った1年(1)
1. 検査
「先生、これはがんですか?」
「そうですね」
「切れますか?」
「切れますね」
「部分ですか?」
「いや、全摘ですね」
平成16年1月19日、T大学医学部付属病院消化器内科の診療室、K医師との会話である。シャーカステンに並べられた3枚のエコー写真には膵体部の右、頭部に近いほうにはいつもの見慣れた嚢胞。それに加えて尾部に近い上部に新たに12ミリほどの腫瘍が写っていた。
これは告知? いや本人が画像を見ているのである。それは不思議なほど淡々とした会話だった。
エコーを撮っているとき、いつもより慎重な感じがした。ベテランの医師を呼んで画面を見ながら「ありますね」「うん、あるね」という会話を耳にし、「嚢胞ならいつもあるじゃない」と思いながら、ふと嫌な予感が頭をよぎった。それが見事に的中したのである。ずっと1桁だった腫瘍マーカーCA-19-9は409に上がっていた。
「検査の必要があります。すぐ入院の手続きをしましょう」
あきらかにK医師は焦っていた。入院の申込みをしてもらうことにして、書類をもらい病院を後にした。T大学に勤務している次女に定期便の結果報告の電話をいれる。
「どうだった?」
「ママがんだって、膵臓の」
「えっ、ほんと?」
電話の向こうで一瞬娘が絶句した。
「うん、12ミリほどの腫瘍があったの」
「いまから行こうか?」
娘の勤務地とは目と鼻の先である。
「いや、これから帝劇へ行って『エリザベート』のチケットもらってくるから」
「ママだいじょうぶ?」
薄暗くなった冬の有楽町の街を歩きながら、ミュージカルに行けるかな。長女が関係しているミュージカルを主人と一緒に観に行くのを楽しみにしていたのに……。
家に帰る電車のなかで、この5年間の膵臓との関わりが走馬燈のように頭の中を駆けめぐっていた。あの膵嚢胞が発見されたとき、次女は「ママ、がんだったらあきらめてね」と言ったっけ。あとで次女は冗談よと言ったが、膵がんの厳しさを知っていたのだ。その膵がんになってしまったんだ、私。 家に帰り着くと主人が急いでドアを開けてくれた。電話で報告していたので複雑な表情をしている。努めて冷静にしようとしている感じである。「みんなそろったら詳しく話しますね」といって、すぐ夕飯の支度に取りかかった。
皆が揃ったところで、病院でのいきさつを説明する。皆言葉少ない。なんと言っていいのか戸惑っているのだろう。「がん」という言葉の重さ。「でも手術できるんだって」「こんなに元気なのに、まるで交通事故か、辻斬りに遭ったみたいね」と私は努めて明るく言う。つられてみんなも笑った。 「ママの手術が成功するように、みんなでがんばろう」主人が言ってくれた。「がんになってしまったんだから、乗り切るしかないよね」と娘たち。
私は心に誓った。“私は絶対に泣かない!!強くならねば”と。
K医師の様子から入院は近そう、仕事を片付けておかなければ……身辺整理もしてと思うが、なにから手をつけていいのかわからない。やっぱり私も動揺しているのかな。とりあえずやりかけの書類を完成させなければ。主人と私は社会保険労務士の事務所を開業しており、お互いパートナーとして忙しく働いていた。
そんなことをいろいろ考えていたら、早く寝なさいと家族に言われてしまい横になった。いろんな思いがこみ上げてきて眠れないだろうなと思ったが、疲れもあったのかぐっすり眠ってしまった。案外私って図太いのかな。
開けてしまった紹介状
今から7年前、平成10年10月16日、R病院の人間ドックの超音波検査で膵臓に7ミリほどの丸い影が見つかった。19日健康診断の結果説明を聞きに行く。
「たぶん嚢胞だと思いますが、念のため専門の科で診てもらってください。後日紹介状を送ります」と言われた。嚢胞とは水のようなものが溜まった袋だと簡単な説明をしてくれた。袋ならがんではないよね、主人も肝臓に袋があるけれど心配ないといわれていたもの、と自分に言い聞かせる。
21日R病院の健康センターから手紙が届く。その日は家族揃って横浜で夕食を食べることになっていた。家に1人いた私はこの紹介状の中身が気になってしかたなかった。今考えるとどうしてと思うが、とうとう不安にいたたまれなくて開封してしまった。そこには「エコーにて膵臓に7ミリ程の腫瘍がみられる」と記してあった。
腫瘍? がん! 体中に不安が走った。
「わたしやっぱりがんなんだ!」開封してはいけない紹介状を開けてしまったことなどまったく頭になかった。
待ち合わせの場所で、主人の顔を見るなり「紹介状届いた。腫瘍って書いてあるの。腫瘍ってがんのことよね」と言った。そばにいた次女が「ママ、紹介状開けちゃったの?」「うん、読んだらそう書いてあったの」
「ばかねぇ、ママ。紹介状は開封してはいけないのよ」
「あっそう? そうだったわよね」と私は慌てた。そのとき初めていけないことをしてしまったことに気づいた。
どうかしてたんだ私。
「ママ、がんだったらあきらめてね」軽い口調でいった次女の言葉に、冗談だと思いながらも心臓が凍りつく思いだった。
「ママはドジだわねぇ」と笑いつつ長女。しかし皆心の中では不安がよぎっているようだった。
食事の帰りに書店へ寄って医学の本を読みあさった。主人は膵臓ならどの病院がいいか調べていた。
家に帰って問題の紹介状を皆で読む。そこには「腫瘍」ではなく「腫瘤」という字があった。
「ママ、腫瘍じゃなく腫瘤だわよ」
「腫瘤だって同じでしょ」と、私は訳のわからないことを言っていたようだ。
翌日主人と一緒にR病院の健康センターに行き、紹介状を開封してしまったことを話し、書き直してもらった。それを持ってR病院の内科に行った。紹介状に目を通した医師は「この画像から見ると多分膵嚢胞と思うが、詳しい検査をしてみないとわからない」と言った。検査はCT、MRI、ERCP(内視鏡的逆行性膵胆管造影)などとのこと。とりあえずCTの予約をいれ、承諾書を渡された。
帰宅してその承諾書を読むと、ERCPの検査による死亡率は1万人に1人。当院では過去死亡例はないと書いてあるが、念のため親族の同意書が必要とのこと。そのとき主人が何故か同意書にこだわった。CTの予約日が迫ってきたが結論がでない。とうとうR病院に予約取り消しの電話をいれた。
結局T大学で教授の秘書をしている次女に、T大学付属病院の医師を紹介してもらえるか、教授にたのんでもらうことにした。その結果T大学病院消化器内科のK医師への紹介状を頂くことができ、ほっとした。有難いことだと感謝する。
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