「絶対泣かない」と心に誓い、膵がんと闘った1年(2)

読者投稿:小川嘉子さん
発行:2006年2月
更新:2019年7月

  

2. 入院

写真:2004年1月 誕生日祝いに長女と
2004年1月 誕生日祝いに長女と

平成11年夏から膵嚢胞を観察するため、半年に1度エコーを撮ることになった。幸い私の膵嚢胞は変化なく、無事5年が過ぎた。

15年7月の検査のとき、「5年間何ともないので次は1年後にしますか」とK医師から言われた。一瞬迷ったが「半年に一度安心を得たいので、1月にまた来ます」と答えていた。

K医師は平成16年1月19日に予約を入れた。それが運命の膵がん発見の日である。この日K医師が焦ったのはこういう経緯があったからだ。

また検診のたびに体重が増えているので「増える原因は何ですか」と言われた。

「がんになると痩せると聞いているので痩せるのが怖いし、ダイエットしたいけど、どっちで痩せたのか分からなくなるのでは……」

「もうそろそろダイエットしてもいいでしょう」と言われた。

翌日から長女と2人でダイエットを始めた。食事制限だけで6カ月、年末には5キロ落とすことができ、私はルンルンだった。しかしその時私の膵臓にはがんが発生していたのだ。まさしく懸念していた「ダイエットで痩せたのかがんで痩せたのかわからない」状態になってしまった。あとで聞くと痩せるという自覚症状がでる頃にはもっと進行しているとかで、私の取り越し苦労だったらしい。

がん告知の日にもどるが、あの日K医師とあのように淡々と会話ができたのも、5年前の膵嚢胞のときに“がん告知”の洗礼を受けてしまっていたし、この5年間で知らず知らずのうちに覚悟ができていたのかも知れない。

告知の翌朝、すっきりと目覚めた。不思議なぐらい心は乱れていない。入院の保証人を姉に頼むため会う。上から2番目の姉だが実家を継いでいるのと面倒見がいいので、皆何かと頼りにしている。4人姉妹の末っ子の私はこの年になっても姉から子供扱いされている。その私が膵がんと聞いて姉も絶句した。1番上の姉が前年の9月胃がんの手術をして、皆で気づかっていた矢先の私の膵がん。話したいことはいっぱいあったが、入院の準備があるからと別れる。

21日K医師から「23日の金曜に入院できますが」と電話が入る。土日が入るので渋っていると、「土日は家に帰られても結構ですから、外科のほうも手配してあります」と言われ、23日に決めた。

そんなに緊急なんだとちょっぴり不安になる。でも顔には出さないことにしている。私が挫ければ、周りはもっとつらくなるだろうと思うから。娘たちが膵臓の本を買ってきたり、インターネットで調べたりして情報を集めている。

膵臓は「沈黙の臓器」と言われるとおり発見しにくい。腰痛(背中)や黄疸などの自覚症状が出たときにはかなり進行しており、手遅れになるという。手術が出来ないのも生存率の低さもそのため。自覚症状もなく早期に発見できたのは、定期検診のおかげ、膵嚢胞さまさまである。

急の入院で身の回りの整理もままならず、余分なことを考える暇もなかった。がんの話になると主人の目が潤んでいるのが感じられて、私は泣きたくなるのをぐっとこらえる。絶対泣かないと自分にいいきかせているから。

入院前夜、「しばらくママの手料理できないから何がいい?」と聞くと「ママのホワイトシチュー」と全員のリクエスト。支度をしながらもしかしてこれが最後かも、ふとそんなことが浮かび涙が滲んでくる。そんなことはないよね、私には守護霊さんがついていてくれるんだもの。

私と守護霊さん

68年の人生のなかで「私誰かに守られているんだ」と思うことが何回もあった。

初めての海外旅行で乗ったアリタリア航空の飛行機が離陸直後異常を感じて成田に戻ったこと。2度目はグランドキャニオンの遊覧飛行中、燃料漏れのトラブルを起こし、空港に戻ってしまった。夜のアナハイム球場に遅れそうになったっけ。3度目はロスから離陸直前、整備不備が見つかる。もしそのまま離陸していたら……。

26年前に虫垂炎の手術をしたときにはこんなことがあった。下腹部に鈍い痛みを感じて病院へ行くと「虫垂炎ですね。慢性でしょう。切っても切らなくてもいいが、どっちにしますか」と言われた。そんなこと言われても困るなあと思いながら、なぜか次の瞬間「切ってください!」と言っていた。 「もう少しほっといたら腹膜炎で危なかったって。ママ切って良かったね」と当時高校生の次女。

「冗談じゃないわ。切っても切らなくてもいいと言ったのは先生のほうじゃない」どっちでもと言われたら切りたくないのが人情。あの時「切ってください」と守護霊さんが言わせたのだ。膵嚢胞検査のとき主人がR病院をためらったのも、検診を「半年後にします」と言ったのも、守護霊さんに守られていたのだと思う。普通は安易なほうを取るのにそうしなかったことで、何度も命拾いをしている。私はいつも「守護霊さん、ありがとう」と感謝している。

さて、入院前夜の夕食のリクエストのホワイトシチュー。

「やっぱりママのはおいしいね。早く元気になってまた作ってね」

私は「なんだかコマーシャルみたいね」などと冗談を飛ばす。後片づけをしながらしばらくはこんなこともできないなと感傷に浸りながら、皆のお茶碗を1つひとつ丁寧に洗う。お風呂に入って1人になると、大好きなジェットバスの泡の中で涙がこぼれそうになった。

入院、でも心は穏やか

1月23日(金)入院1日目

今日は早く目が覚めたが、よく眠ったらしくすっきりしている。8時半に家を出る。大きな鞄を持って次女が付き添ってくれる。通っていた病院の廊下の先の新しいビルに入退院センターはあった。1階はとても明るく、レストラン、喫茶室、理容室、売店、銀行のキャッシュサービス、びっくりしたのは郵便局まであったことだ。

「いつこんなの出来たの?」

「ママ5年も通っていて知らなかったの?」と言いながら手続きをする。こちらの病棟はA棟、5年前に入院した北病棟はB棟と呼ばれていた。15階建て、15階には上野精養軒がはいっている。

北ウイング、内科病棟11階、1147号室 。イイヨナって読めて、ちょっといい気分。4人部屋は広く、シャワー室・トイレも付いている。スタッフセンターも広々として開放されている。何となく入院という感じがしない。看護師長から説明。「今はナースセンターとか看護婦とは言わないのね」と私。担当医は前と同じ3人。ヘッドにK医師。入院そうそう検査がびっしり。採血、点滴の針設置、問診、胸部腹部の診察、血圧測定、検温とM研修医がてきぱきと行う。採血、点滴とも上手だ。ほっとする。レントゲン検査、心電図、点滴と慌ただしい。昼食はなし。3時からCT。同意書にサイン。4時から内視鏡超音波。M研修医に車椅子を押されながら同意書にサインする。

「こんな所でまでサインするなんて有名人みたいね」といったら大いに笑われた。この検査は5年前の膵嚢胞の時と同じ「胆膵EUS」。今回は途中から少し意識が戻った。腹部に違和感があり医師の顔がぼんやり見えた。K医師がいつの間にか来ていた。部屋に戻ると、喉が痛くて唾を飲むのもつらいので、「前回は何ともなかったのに」とM研修医に聞く。管を入れるのに手間取ったらしい。M研修医から報告があったのかY医師が来て「ごめんなさいね」と言う。慣れていなかったのかなあ。皆こうして上手になるんだから仕方がないか。

次女が来て、プリンなど買ってきてくれる。次女が帰った後、今日は検査ずくめだったと思いながら疲れて9時消灯。でも眠れず夜吐いてしまった。下痢もした。手術前だから体調崩したくないのに。

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