「絶対泣かない」と心に誓い、膵がんと闘った1年(7)

読者投稿:小川嘉子さん
発行:2006年8月
更新:2019年7月

  

7. 外来抗がん剤治療(その2)

8月(術後7カ月)

半年間無事に過ぎたという安堵感が、私を積極的にしている。月3回の病院通いも、仕事と思えば苦にならない。脱毛はヘアピースでカバー、頬の上気も少々の疲れにも慣れてきた。ただ夜型の生活に戻ってきているので要注意だ。

ミュージカル『ユー・ガット・ア・フレンド』を青山円形劇場へ観にいく。長女が長年演出している子供を中心としたミュージカルで、今回は企画も担当。ヤマハのエレクトーン奏者を交えたショー形式だったが、子供とは思えない巧みな演奏に感激した。終わって長女と合流でき夕食。家族4人揃うことは滅多にないので、楽しい時を過ごした。

胃がんの手術をした1番上の姉の希望で、私が「4人姉妹・熱海の旅」2泊3日のプランを立てた。

「病人にやらせて悪いわねぇ」と言いながら、私を頼っている。普段は子供扱いされるのだが……。病気のことなどすっかり忘れて、ツアーコンダクターになる。

それぞれ娘たちの見送りをうけ、イラストの上手な姪が「四ばば珍道中」と名付けて描いてくれた旅行が始まる。姉の体力を考慮して何処も行かず、ただただおしゃべりと温泉、そして昼寝。姉はじっとしていられない性分。病人なのに家で動き回って疲れているらしく、旅館ではよく寝ていた。熱海の海岸を散歩し「寛一お宮之像」の前で写真を撮る。娘たちがインターネットで探してくれた、眼下に波しぶきの見えるレストランで昼食。のんびりとした旅を姉は喜んでくれた。

9月、術後8カ月で海外旅行へ

写真:ブサキ寺院で

2004年9月1日からバリ島に家族旅行へ。ブサキ寺院で。高台だったが、日本語の上手なハンサムなガイドと話しながら、半日歩けた

「9月ごろバリ島に行こうと思うんですが」とK医師に話した。

「大丈夫、具合が悪くなったら帰ってくれば? 近いんだし」と気軽に言ってくださったので、安心して1日、バリ島へ5泊6日の旅行に。長女は何回も行っているが、家族そろっては初めて。期待に胸が弾む。夜中に到着。飛行機に7時間近く乗ったが、ほとんど疲れを感じない。山岳地のウブドに向かって、真夜中の道を車は走る。こんな所にホテルはあるの? と心配になったころ、いきなり目の前に素晴らしいホテルが見えた。

翌日有名なブサキ寺院へ。高台にあったが、半日も歩けた。「もう完全に回復したわよ」と言っていたら、翌日、ホテルの広い庭を散歩中、あまりの急な坂道に「もう歩けない!」と完全にバテてしまった。3人がオロオロしているのが、おかしかった。

海側のブノアでは、ジンバランに夕陽を見に行ったり、ジェゴグという楽器の素晴らしい演奏や舞踊を鑑賞、そしてエステざんまい。

写真:ジュゴクの演奏者とともに
ジュゴクの演奏者とともに

「ママが元気になったお陰だね」という皆の言葉に、家族で海外旅行は何度か行っているが、今回ほど家族の温かさ、健康の有り難さを感じた旅行はなかった。長女の御膳立てで、バリらしい観光と食事を満喫した。ちょっぴり疲労を感じたが、この旅行で、また1つ私の回復を確認でき有意義だった。

27日。CTの結果を聞くので、次女が同行してくれた。K医師の

「なんともないようです。良かったですね」の言葉にほっとするが、

楽観はしていられない。

何年ジェムザールを投与し続けるか、再発してから抗がん剤を再投与しても意味がないなら、抗がん剤は命がある限り続けることになるのか……。

「5年生存したとして、5年間ジェムザールを打ったら、何かダメージがありますか」

「5年も打った前例がないので、何ともいえないです」

日本での認可が3年前なので、データが無いのはわかるが、米国では1996年に認可されているから、学会で発表されていないのだろうか。

体重を聞かれ「退院時42キロで、今は44.5キロです。主治医から栄養摂りすぎといわれて」「再発したら太れないからいいんですよ」と。膵臓を切った人でこんなに元気で食事が取れる人はあまりいないということかしら。早期発見と膵頭部を残せたことが、ラッキーだったのだろうか。

今、TS-1を膵臓がん用に申請していて、認可されれば経口剤だから毎週通院しなくて済むという。楽にはなるがジェムザールと、どちらが私にとってベターなのか。認可され、私が使うとなれば第1号として、研究の対象になるのだろうか。まあそれでもいいか。

帰りに、クリオネが池袋のサンシャイン水族館に来ているというので見に行く。入院中クリオネを見たくて水族館に行ったが、休みで見られなかったことがあった。

「元気になって見に来るようにということだったのよ」と次女。本当にそうなったと感激! 可愛くていつまでも見ていた。カメラで写そうとしたら、1匹がずっと止まってくれた。まるで私を待っていてくれたように……。

10月(術後9カ月)

21日。“輸血による感染症”の検査結果は、全部マイナス。

「何㏄輸血したんですか」と質問する。

「していないですよ」と主治医。

「手術で、していないのですか」

「加熱製剤ですから」

ようわからん! 加熱製剤は輸血とは言わないのかなぁ。(感染症の検査とはどうつながるの?)

家に帰ったら、長女がいた。今日は「家事休業日」だからとオムレツを作ってくれた。年に数度の長女の手料理。おいしかった。

28日。長女のライブ、今年は2回も開いた。姉を交えて4人で行く。今回は「十五夜」と題して、レトロ調の和服姿でいつもと趣向が違う。トークも上手になり、満員の観客を楽しませていた。回を重ね、歳を取ると、場を作るのが上手になってくると感心する。私の元気なうちに、歌手の自分の姿を、もう1度見せようとしているのかしら……。いい1日だったが、ジェムザールを投与した後だったので、少し疲れた。

8月頃主治医に、私のあと手術をした方がいるか聞いたが、まだ誰もいないとの返事だった。膵臓の手術は本当に稀なんだ。今月、化学療法室の看護師から、術後のジェムザール治療を始めた人がいると聞いた。ようやく私に続く人が出たのだ。頑張ってほしい。

11月(術後10カ月)

11日。風邪をひいたのか喉が痛い。先生に風邪薬のことを聞く。「ジェムザールを投与している間に、風邪薬を飲むのは好ましくない。どうしても風邪薬を飲むときは、ジェムザールを休みます。風邪薬は肝臓を痛めるから」。そう言えばジェムザールを打つ前の血液検査で、白血球と肝機能をいつも注意していた。風邪より再発が怖いから、これからはずっとマスクをすることにした。

15日。私の御膳立てで箱根2泊3日、2度目の「四ばば珍道中」。前回と同じく何処にも行かず、ただただ温泉と昼寝とおしゃべり。11時半ごろ、1番上の姉が「こんなに遅く寝たことがない」、あとの3人は「こんなに早く寝たことがない」と言いながら床に就く。

胃の手術をした姉は、やはり疲れているようだ。いつも無理しないでと皆で口を酸っぱくして言っているのだが……。姉と話していたとき、なにがきっかけだったか、

「私なんか早く死んだほうがいいのよ」と言った。いろいろ宥めていた私は、その言葉を聞いた途端、思わず大きな声を出してしまった。

「みんなが心配しているのに! 私だっていつ再発するか、毎日不安な気持ちで過ごしているのよ。あんたと同じなのよ! 膵臓がんは再発したらお終いと聞いているから、今度の腫瘍マーカーはどうかとか、口には出さないけど、頭から消えたことはないのよ。でも自分のことよりお姉さんのことを心配しているのに。私はがんと言われてからまだ1度も泣いたことがないけど、お姉さんのそんな態度を見てると情けなくて、涙がでてくるよ。無理しちゃ駄目って言っているのに。どうして頑張って長生きしようと思わないの! そんなに死んだほうがいいなんて言うなら、死んじゃえばいい!」

興奮して涙がぼろぼろ出た。大声で泣き出した私に、2番目の姉がびっくりして飛んできた。

「あんた、体に障るから落ち着いて!」と私の背中を撫でる。下の姉は茫然としている。1番上の姉は私の剣幕に驚いて、「いつも冷静なヨッちゃんがこんなに怒るなんて……ゴメン」と小さくなってしまった。でも、すぐ仲直り。もともと姉の体を思って言っているのだから。私も言ってしまってから、何でこんなに興奮したのかと思ったぐらい。やはりがんになった人にしか分からない思いを(周りがどんなに心配してくれても、本人しかその気持ちは絶対分からないもの)抱えて、それでも強い意志を持って克服していこうと思っているから、姉にも弱音は吐いてほしくなかったのだ。日頃から1回り上の姉は私の目標だったから。「がん告知」の日、絶対泣かないと誓ったのに、初めて大泣きしてしまった。私のアクシデントがなければ、いい旅行だった。

21日。先日、以前勤めていた会社の上司Aさんから電話があった。主人に替わって私が出ると、一瞬間があって、

「元気なの? Yさんが手術後どうしているか、怖くて電話できないって言っているけれど……」

「えっ、私Yさんに手術のこと言ったの?」Yさんからの電話は覚えている。でもそれは「告知」の前と思っていた。すぐ元部下のYさんに電話する。

「私、そんなこと言った?」

「言ったわよ、手術するって。膵臓は難しいから、もしかしたら駄目かもね。お葬式には来てくれるって、すごくハイな調子だったわよ」

「それで、あなた何て言ったの」

「赤いバラ持っていくわよ」

全く記憶がない。どういうことなのだろう、当時私はそれほど動揺していたということ?

「その後怖くて、電話できなかった。なにも連絡ないんだもの」

「心配かけてゴメンネ。Aさんも一緒に会おうね」と電話を切った。主人に話すと呆れたような顔をしたが「そんなものかもね」。

そして今日横浜で会った。何年ぶりだろう。「ちょっとスマートになったね」と言いながら、元気になった私を喜んでくれた。

27日。5年ぶりの高校の同期会。会場は帝劇の近く。有楽町を歩きながら「がん告知」の日を思い出す。あの日に比べ、今日の足取りのなんと軽やかなこと。今年が最後の同期会と聞いて150人ぐらい集まった。幹事にいきなり「小川さんは昔から何にでも積極的に挑戦する方ですが、今回はがんにまで挑戦してしまいました。お元気になられたのでお話を伺いたいと思います」と言われ、がん発見の経緯などを話し、「早期発見が大切なので健康診断を必ず受けてください」と締めくくった。膵臓がんと聞いて、やっぱり皆「わぁ大変」というような表情になる。あとでいろいろ質問がでた。

中学時代から仲の良かったAさんが御主人が肝臓がんの手術をして、昨日退院したばかりという。同じT大学病院、M教授の執刀と聞いて、話に熱が入った。2次会でも健康の話ばかり。みんなそういう年になったのだとつくづく思う。元気なうちに、そして会える機会に、できるだけ多くの人に会おう。いつまた倒れても、悔いのないように。

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