肺がん4期。脳転移、骨転移を乗り越えて
がんと共に3年を過ごして
山上愛さん
2003年10月~ | 非小細胞肺がんの4期と診断されイレッサによる治療を開始。 |
2004年6月 | イレッサ中止、WT-1ワクチン療法の治験に参加 |
10月 | 治験を打ち切りイレッサ治療を再開 |
2005年1月 | 縮小が認められイレッサ治療を通院にて継続する |
2005年8月 | 化学療法に変更。ジエムザール・パラプラチンで効果を認めず、 10月よりタキソテール・TS-1を4クール |
2006年2月 | 化学療法を中止して無治療にて経過観察。以後、肺野の陰影は不変 |
3月 | MRI検査で脳転移の疑い |
4月 | WT-1ワクチン療法を再開 |
7月 | WT-1ワクチン療法を打ち切り、3度目のイレッサ治療を始める |
11月 | MRI検査で脳転移消失 |
2007年1月 | 仙骨転移で放射線治療を始める |
3年間の経過
2006年11月に『がんサポート』は発刊3周年を迎えた。私が肺がんの4期と宣告されたのは、2003年の10月のこと、翌11月に誕生した『がんサポート』は創刊以来ずっと定期購読をしている。私は、この3年を、がんと共に、また『がんサポート』と共に生きてきた。毎月送られて来る雑誌からは、がんという病気やその治療法について多くの知識を得、またサバイバーたちの体験談などから大きな励ましをもらってきた。
手術が不可能との診断を受けた当初は、余命1年くらいかと覚悟さえした。無事に1年を経過したとき、自分の体験と感謝の気持ちを綴って『がんサポート』に投稿した。それから更に2年余りが経過した。今でもがんはあるが、美味しく食べ、よく歩き、日々を感動と共に過ごすことができている。何と幸運なことかと思う。
私のがんの治療は、最初は分子標的薬のイレッサで効果を得ることができた。が、その耐性が現れてのちは、がんワクチン療法の治験、抗がん剤による治療など、いくつもの治療を変遷した。そして、昨年の夏から3度目のイレッサによる治療を開始した。最初のイレッサが効いて小さくなった左肺の主病変、範囲がせまかった右肺の転移病巣は、ともに少しずつ増大しているようだ。昨年春には脳に数個の転移の疑いありと言われた。これが消えてホッとしたのも束の間、昨年末には仙骨への転移が見つかった。現在は、放射線治療のために入院している。
この3年余り、抗がん剤の副作用で味覚障害が起きたり、時期によっては疲れやすかったりもしたが、QOLはさして低下することも無かった。決して順調な経過とは言えないだろうが、周囲の人から「病気を持っているようには思えない」と言われるような日々を送れたことはとてもありがたい。
すでに手術不可能で全身病となったがんには、どの治療が効果が出るかなど、体験しないとわからないことが多い。私は、これまでに『がんサポート』をはじめ、本やインターネットから情報を得ては、主治医に相談。そのうえで、最後は自分の人生観に合致する治療法を選んできた。その結果に納得できたことが何よりも良かったと思う。
「この治療をぜひ受けてみたい。結果が良くなかったらまた先生の所に戻りたい」という私の身勝手な希望にも、主治医は柔軟に対応してくださった。本当に幸せだったと感謝している。外来診察の予約時間が1時間以上もずれ込むことが常である多忙な主治医に、ゆっくりと質問するのは難しい。
副作用について尋ねたところ「やってみなければ分かりません」と、転移の可能性については「悪いほうは考えないほうが良い」と、またこの先の治療にはどんなものがあるか伺うと「そのときに考えましょう」という具合に、主治医の対応は素っ気ないことが多かった。
私は、先生のおっしゃることや忙しい現実に一定の理解を示した上で、自分の聞きたいことを端的に尋ねるようにしている。
3年を経た今では、これから起こり得ることやわかれ道を想定したうえで治療に臨みたいという私の性格を、主治医に理解していただけるようになった。主治医のご機嫌を損ねるのを恐れず、率直にコミュニケーションをとることが大切だと思う。
脳転移の影が消えた
昨年3月末に脳のMRI検査で脳転移の影が見つかった。複数の病院でセカンドオピニオンを求めたが、どこに行っても「小さい転移が数個あるため、ガンマナイフやサイバーナイフなどのピンポイントの放射線治療は適応にならない、全脳照射がよい」と勧められた。
私は全脳照射の副作用を避けたいと思う気持ちが強かったので、何回かに分けてピンポイントの治療を受けられないものかと治療を先延ばしにしていた。すると、11月1日のMRI検査で、7月の検査時にはあったはずの数個の影が殆ど消えていたのだ。
「あの影は何だったんでしょう」と言う私の問いに脳神経外科の担当医も「消えるのは転移より他には無いのですがね」と首をかしげておられた。それはまるで奇跡だった。春からの不安から解放されて、心から喜んだ。「副作用の大きい治療はできるだけ避けたい」という私の基本的な考えが良い結果になったようだ。もちろん、今後も脳のMRI検査は、2~3カ月に1回は受けて、経過を見て行く。
朝の散歩が生きる力の源
入院中も朝の散歩に出かけた。病院構内のグランドで
骨転移治療で入院した今回の病室が、一昨年夏に抗がん剤治療で入院したときの部屋と偶然にも一緒だった。古巣に帰ったような懐かしささえ感じる。
椅子に座るときや仰向けで寝るとき、仙骨周囲がかなり痛むが、幸いにも歩行には支障をきたさない。毎朝7時から30分あまり病院構内のグランドを歩く。これまで3回の入院で歩き慣れたコースである。一緒に歩いてお友達になった人、今も励ましあっている仲間、残念ながら亡くなった方のことなど、さまざまな思いが心をよぎる。
うっすら朝焼けの空を眺めながら歩いていると、7時過ぎには、真っ赤な大きい朝日が遠くの森の上に昇ってくる。雲の彩のグラデーションが美しい。思わずデジカメのシャッターをきる。冬の朝は誰も歩いている人はいない。FM放送の音楽をウオークマンで聴きながら、気持ちよく歩いていると、自分が病気であることも忘れて「ああ、今日も元気」という感謝の気持ちと自信が湧いてくるのだ。昔、陸軍病院だったこのK病院は、敷地が広くて樹々も多い。小鳥たちの姿も見られて嬉しい。昨年春に入院したH大病院も構内が広く、満開の桜が素晴らしかった。散歩の際には、花吹雪を楽しんだものだ。
在宅治療の間も散歩は続けていた。池の堤を巡り、道路を跨ぐ歩道橋から朝日を見て、五千歩ほどのコースを歩く。途中に氏神の社と、4つの辻地蔵がある。
神仏混淆だが、いずれにも手を合わせて、元気に歩けることを感謝し、主人や3人の息子たちやその家族の無事を祈るのが習慣となっていた。病院でも家でも、こうして歩いた後の朝食は、とても美味しい。食べることと歩くこと、単純なことながらこれが私の生きる力の源となっていると感じる。
いつの頃からだろうか。私は自分の病気の治癒や延命は願わなくなっていた。諦めているわけではない。今自分が在ること自体に感謝し、満足しているのだ。
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