「いつも笑顔で」と転移がんと闘い続けた5年間
ある大手製薬会社元役員の壮絶な闘病日記
川野和之さん
かわの かずゆき
1944年生まれ。
科研製薬、ファイザー製薬に勤務後、ブリストルマイヤーズ製薬名古屋支店長、スミスクライン・ビーチャム製薬(現グラクソ・スミスクライン)取締役営業本部長を歴任。2001年に退職。
1999年10月 | 直腸がん根治手術 転移性肝がん2カ所切除 |
2001年8月 | 胃がん亜全摘術 転移性肝がん2カ所切除 胆のう摘出 |
2002年4月 | 転移性肺がん 右肺上葉胸腔鏡手術 左肺舌区切除術 胸腔鏡にて1カ所摘出 |
2003年5月 | 転移性肺がん 左肺上葉切除術 |
2003年11月 ~2004年6月 | 肺門部リンパ節転移の疑い 横隔膜リンパ節転移の疑いにて化学療法施行 |
2004年9月 | 転移性肝がん切除術 膵がん切除術 脾臓摘出 |
闘病生活の開始
1999年10月9日、大腸ファイバースコープを施行中、ファイバーの先が直腸から先に入らないという理由で中止になる。S先生に紹介状をもらって、13日にT病院大腸科を受診したが、入院の時期が不明瞭で不安だった。そのため、すぐにG病院に問い合わせた。幸いにも翌日14日に受診予約が取れ、18日にG病院に入院となった。
外資系の製薬会社に在籍し、しかも抗がん剤を扱っていた関係で、がんについての知識はあり、がん告知を受けたときは、状況からある程度の予想はしていた。ただ、最も恐れる転移の無いことをひたすら願う気持ちで一杯だった。
13日、T病院受診後に帰社して、社長からA社との合併が急遽決まったと話があった。年末までに各部門ごとに先方と組織などについて話を進めねばならない。「川野君は命をまず一番に考えて欲しい。営業部門のことは心配しないで任せなさい」と言われたが、この大事な時期に入院しなければならないという過酷な洗礼に落ち込んでしまった。がん告知よりも落ち込んだ。
加えて、9月末に中間金を入れ、10月末に残金を入れることになっていた家購入に関しても、がん発病で銀行ローンが下りないという問題があることが判明した。家の件は入院中に処理をしなければならない。私が入院で動けない以上は、この大変な作業を家内1人に任せるしかない。毎日付き添いに来て、疲れきって帰って不動産屋と交渉をする過酷な毎日だった。家内はこの状況の激変で多発性の円形脱毛症に悩まされることになった。家の件はもちろんだが、その後の私の闘病生活は家内との協業を抜きにして語れない。
また、がん発生以来、我が家では、息子2人を合わせ、4人でどんな問題でも家族会議を開いて共有した。徹夜も何度も経験した。病気について隠し事は一切無かった。
10月27日に医師からインフォームド・コンセントがあり、検査データでは、転移は80パーセント否定されているが、開けて見なければはっきりと言えないと告げられた。またオペ(手術)の内容、その後の治療についても詳しく説明を受けた。転移の可能性が低くなったことは本当に嬉しく、小躍りした。後は手術で切除してしまえば復帰できると思うと29日の手術が待ち遠しくなった。
主治医のG病院のA先生は、残り20パーセントの転移の可能性が生じたときのため、肝臓チームと連絡を取り、隣の手術場から応援してくれる体制を組んでくれた。この病院でなければできないすばらしい横の連携だ。
転移の告知。1度目の手術
開腹手術をした結果、最も恐れていた最悪の状態で、リンパ節7カ所の腫脹と肝2カ所の切除が行われた。この時点で病期が*デュークス分類のD、5年生存率20パーセント以下のデータが突きつけられた。家内にも転移が怖いと伝えていたため、手術の後、家内はA先生に、転移については本人に言わないでほしいとお願いしたそうだ。A先生は「肝転移も取りきれて根治手術だったのだから本人に正しく伝えて、今後頑張るように、話しておきます」と言われたそうだ。
A先生からの告知は、なんとオペ後のリカバリー室でまだ意識朦朧、高熱の中であったらしい。「らしい」と書いたのははっきりした記憶が無いからだ。これまで5度の全身麻酔を経験したが、4回は麻酔前後の記憶は見事に飛んでいる。A先生はこんな現象を知らないのだろう。それにしても、あまりにお粗末な転移告知だった。
この転移の事実をはっきり認識したときのショックは大変なものだった。あと何年生きられるのだろう。家族と別れを告げる日が来ることは避けられない。どうしてこんなことになったのだろう。合併の件、家の件、その上さらに一番恐れていた転移まで重なってしまった。こんな目に遭うとは、どんな悪いことをしたというのか。八方塞りの状態に陥った。
しかし、手術後の肉体的苦痛が続き、体力の低下があり、下痢の頻発、もっぱらそれらの回復に意識が集中するようになり、しばらくは考えない時間が増えてきた。
11月15日に退院してからも、下痢の頻発に悩まされた。この切なさは味わったものでなければ理解できないだろう。1日14~15回軟便の下痢に見舞われる。突然直腸あたりがどくどくと波打つ。(こらえなければ)我慢してトイレに駆け込む寸前に軟便の下痢がパジャマの下からだらだらと流れ落ちる。何度廊下を汚したことか。情けなくて涙が出る。対処法として、どんな物を、どれくらい、いつ食べたら便がどうなるかを見るために、うんこ手帳なるものをつけ始めた。3年続いた。
*デュークス分類=国際的な大腸がんの病期分類。がんの大きさではなく、がんが達している深さと、リンパ節転移、その他の臓器への遠隔転移の有無によってA~Dに分類される
手術で完治が望めるがん
肉体的障害が一段落し始めた12月頃から、転移についての恐怖は再び折につけ湧きあがってきた。無気力になり何もしたくないときがあったり、家族会議を開いて隠し事は無いはずなのに、家族が何か隠しているのではないかと疑ったりした。
何かすがれるものはないかと、多くの医学書、闘病記、情報誌等に目を向け始めたそんなとき、国立がん研究センターのホームページに、「大腸がんは肝、肺の転移があっても手術で完治が望めるがんである」と記されていた言葉が目に入った。この一文によって私のその後の闘病方針は決まった。バイブルとして何度読み返したことか。「転移しても切ればよい、完治するまで切って、切って、切りまくろう」。そう割り切れば気持ちがずっと楽になった。前向きな強い気力を持って必ずカムバックし、もう一度第一線で働くことを目標にした。
そうは言っても転移させないのが一番。そのための処方箋を数多くの情報から取り出した。薬は抗がん剤フルツロン、転移抑制作用を期待してタガメット、食事は脂肪を控え繊維物を多く採り、緑黄色野菜で地場のものを食べる、主食は玄米、健康食品、太極拳、ウォーキング、爪もみなどを実行する、とした。免疫力を高め、自然治癒力を一杯に引き出すことが狙いだ。
これらは一挙に始まったのではない。試行錯誤を繰り返しながらの結果だ。食事は家内が一番苦労していた。
もう1つ私にこれ以上無い癒しを与えてくれたのは、姪の子のハックンだった。元来子供好きの私だが、波長がぴたっと合う子で、大いに癒された。今もずっと続いている。
2000年に入って4月に大腸ポリープが見つかった。かなり大きいものだったので、6月に3泊入院し内視鏡専門医に手術をしてもらう。このとき、先生から消化器がんの場合は多重がんの恐れがあるので胃の検査をしたほうがよいと言われ、7月に実施する。しかし、この内視鏡が原因で後で大騒ぎになる。
目標となった闘病記
(朝日新聞社刊)
昨年起きた会社の合併話は、年末前に破談となっていたが、今度は、製薬会社世界2位の規模となる合併が進んだ。日本法人同士も双方で準備に入ることになり、4月営業から人事総務担当役員に移った。大変ストレスを感じる業務で、その上11月発売のわが国初のSSRI抗うつ剤の発売を控え、営業の仕事も兼任することになった。7月頃から全国を駆け回り、がん発病前の忙しさに戻った。
以前と同じように活動できる喜びに、いつの間にか、闘病の処方箋を忘れるときもあった。しかし、前向きに仕事に取り組むことでがんを忘れる日が多くなっていることが免疫力を高めていると信じた。
朝日新聞社発行の月刊誌「論座」2001年2月号に衝撃的ながん闘病記の連載が始まった。「7度転んで、8度起つ」関原健夫さん(当時みずほ信託銀行常務)の手記だ。国立がん研究センターでの治療の、まさに生き証人だ。(切って、切って、切りまくって完治した)現役バンカーの壮絶闘病記にどれほど勇気付けられただろう。連載が終わった後、私は各号をまとめて小冊子にしてどこに行くにも携帯した。落ち込みそうになると読んだ。これもバイブルだ。今の私の方針は間違っていない。関原さんが私の目標となった。
2001年7月までは、健常者と全く変わらない生活リズムを取り戻していた。このまま治るかもとの期待も、正直膨らみ始めていた。1年目の検診で肝の専門医K先生から、あと1年再発しなければOKが出せるかもと言われたが、その解禁日は3カ月後だ。
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