「肺がんよありがとう」と言える幸せな闘病の日々
有効率18%を信じて、私はイレッサ療法を選んだ

発行:2005年3月
更新:2013年4月

  
山上愛さん
山上愛さん

[治療経過]
2003年9月 非小細胞肺がんの4期と診断
2003年10月~ イレッサによる治療を開始 11月に退院、以後通院治療を受ける
2004年6月 骨シンチ検査により、新たに骨盤への転移が判明
2004年7月~ イレッサを中止し、免疫療法の臨床試験に参加する
2004年10月 免疫療法を打ち切り、イレッサを再開


酷暑が続いた2004年の夏もようやく終わり、庭の金木犀の香りが部屋の中にも漂ってくる快い季節となった。その前年の10月半ば頃、入院中の病院から週末に外泊で家に帰ると、この香りがやさしく迎えてくれたのを思い出す。

古稀を迎えた歳にしては至って元気に活発に日々を過ごしていた私が、思いがけず肺がんと診断されたのは2003年の9月下旬のことだった。1週間前に受けた気管支鏡検査の結果を聞きに病院へ行くと、「5カ所から組織を採ったうち、4カ所から変わった細胞が見つかった」とのことであった。「変わった細胞というのはがん細胞ですね?」と問うと「そうです」との答えが返ってきた。非小細胞肺腺がんであると告げられ、手術可能かどうかは更に詳細な検査をしなければわからないので、できるだけ早く入院して検査をし、治療方針が決まったら、そのまま治療に移りましょうと言われた。

がんを宣告されて

よく「がんと宣告されたときは頭が真っ白になった」と言われるが、何故かそのとき、私には大きな動揺はなかった。結果を聞くまではたぶん大丈夫だろうと楽観していた私なのに。これは今でも不思議に思うのだが、「とうとう来たか! 70歳を過ぎたのだからあり得ることだ」とすぐに受け入れることができた。むしろ「これで私の死に方が決まった」とほっとする気持ちさえあった。骨粗鬆症と診断されていた私は、将来寝たきりになって周りに迷惑をかけるのでは……といつも気にしていたからだ。

また、子供の頃から病弱で、高校の頃には肺結核を発病、再発で、卒業は3年も遅れた。それにもかかわらず、結婚後は出産のとき以外は入院したこともなく、3人の男子を育て上げ、その後も旅行や趣味の生活を楽しみ、この年齢まで健康に過ごしてきた。そのことに感謝し、満足しているからこそ、冷静にいられたのだと思う。希望一杯の青春期に将来の夢を壊されたときの無念さのほうが、今回よりも遙かに大きかった。

実は毎年胸部のX線検査は受けていたが、昔の左肺の肺結核の石灰化した跡が残っており、その癒着の影にがんができていたため、見つけられなかったのだった。

2003年2月のX線検査のとき「少し影が濃くなっているようだ」と内科医である主人が、検査を受けた診療所の所長が見ている写真をのぞき込んで心配そうな顔で言った。すぐにCT検査を受けたが、肺がん専門の先生に「以前からある影なので大丈夫でしょう」と言われたことで安心していた。しかし、主人の心配そうな表情がずっと気になっていて、肺結核の再発ということもあり得るのではないかと思った。そして、さらに詳しい検査を受けて不安を解消したいと思い、9月中旬に近畿中央病院で気管支鏡検査を受け、組織を採って調べた結果、肺がんの宣告となったわけである。

3日後の9月22日に病室が空くということなので、早速入院の手続きをした。

肺がんの4期。手術は不可能

入院後1週間は、X線検査、CTスキャン、MRI、骨シンチなど連日検査があった。9月30日に検査結果を総合して、主治医からこれからの治療方針についての説明があり、主人や息子たちと共に聞いた。主病巣が5センチ程でかなり大きく、右肺にも小さな転移があり、骨にも何カ所かの多発性転移がある4期であり、手術は不可能とのことである。手術に備えて少しでも体力をつけようと、院内の階段を昇り下りなどをしていた私はさすがに落胆した。

主治医から勧められたのは標準治療となっている点滴による化学療法であった。最近は嘔吐などの副作用もかなり緩和できるようになっていると聞いたが、「今こんなに美味しく食べているのにそれを損なわれたくない。たとえ余命が短くなっても美味しく食べて1日1日を楽しく生きたい」私はそう思った。

「その抗がん剤が効いた場合どれほど延命されるのですか?」と聞くと平均3カ月とのことである。抗がん剤を受けなかった場合の私の余命を問うと、それは体力やがん細胞の進行の速度によるのでわからないとの答えであったが、私は今まで、周囲で手術不可能な肺がんの人を見てきた経験から、10カ月か1年位かなと予測した。それを3カ月延ばすために4カ月も副作用に苦しみたくない。抗がん剤の点滴治療は受けたくないと即座に決めた。

その気持ちを訴えると、主人も息子たちも私の人生観を理解しているからであろう、このわがままな私の選択を肯定してくれた。主治医も、それは本人の意志で決めることですからと言い、勧めた2種類の化学療法の説明書の他に「イレッサの内服療法」の説明書を見せてくれた。これはがん細胞を叩いてやっつける通常の化学療法とは異なり、がん細胞が大きくなる経路をブロックする療法らしい。だからがん細胞以外の正常な細胞までやられてしまうことが少なく、副作用も少ないようである。

イレッサによる治療を選ぶ

イレッサについては、まだ使用が承認されてまもなく、充分な統計が出ていなかったので、延命できる年数なども解っていなかった。第2相の治験での有効率は18.4パーセントと記されている。また、副作用で間質性肺炎を起こして死亡する人がいたことから、従来の抗がん剤治療で効果がみられなかった場合などに使用されていて、最初からこの治療法を勧めることは少ないとのことであったが、私ははじめからこれを選びたいと思った。

私はまだ体力も気力も充分あるのだから、必ず有効率18.4パーセントの中に入れると信じた。病院で検査をしながら治療を受ければ大事には到らない、と恐怖を感じることもなかった。

主治医が「今夜は家に帰ってゆっくりご家族と相談して決めて下さい」と言われたので、帰ってから遅くまで主人と話し合った。主人は、2月にX線検査で癒着の影が少し濃いことに気付いてCT検査までしたのだから、さらに詳しく気管支鏡検査をしていれば手術が可能だったかもしれないと大変悔やんだ。夫としても医師としてもその口惜しさは解るけれど、私は決してそれを後悔していないと言った。その時点でも既に手術不可能だったかもしれないし、また、もしそのとき手術していたら、その後半年程の間にあった楽しい日々がなかっただろう。いろいろ思い出すと絶対これでよかったと思った。

念願だったエルミタージュ美術館を訪れたいと、気管支鏡検査を受ける直前に行ったロシア旅行は本当に素晴らしい思い出で、「行くことができてよかった!」と私は言った。そしてあと5年、金婚式までは主人のために何とか生きたい! と改めて強く思った。

副作用があってもやはり前向きに何らかの治療を受けて少しでも長く生きよう。まずはイレッサによる治療を信じてこれを選ぼうと決めた。

イレッサが効いた

イレッサは、少し大きめの茶色の錠剤で、毎朝食後に1粒内服する。効果があるだろうか、どんな副作用が出るだろうかなどの期待や不安と共に、祈るような気持ちで飲み込む。飲み始めた翌日の夕食後から下痢が始まり、1日10回以上のかなり激しい下痢が4日間続いた。

主治医からは、点滴をしようか、しばらくイレッサを休もうかなどと言われたが、蜂蜜をたっぷり入れた紅茶を飲んで水分を補い、食欲も落ちなかったので、あまり弱ることもなく、5日目には下痢が5、6回に減り、だんだん治まった。1週間目に撮ったX線検査では、間質性肺炎などの兆しもなくほっとした。あとは治療効果が現れることを念ずるのみであった。

そして10日目の朝、前日に撮ったCT検査のフィルムを主治医が病室に持ってきて「腫瘍が少し小さくなっていますよ」と喜んで下さった。私は大きくなるのを止められるだけでもよいと思っていたのに、私の目でも確かに少し腫瘍が小さくなっているのがわかる。イレッサの効果がこんなに早く出たことに驚いた。やはりこの治療法が私に合っていたのだと、この幸運に感謝で一杯になった。そして入院以来、主人や息子たちはむろんのこと、私の病気を知った親しい友達みんなが、快方に向かうことを心から祈って励ましてくれたお陰だと、ありがたく思った。

早速主人や息子たちを始め、友達にも電話でこの朗報を伝えて喜んでもらった。

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