生ききる―― いまできる精一杯のことを 17歳で急性骨髄性白血病になって
佐藤真夕さん アロマセラピスト
吹奏楽部でユーフォニアムの練習する日々を送っていた高2の冬、佐藤真夕さんは急性骨髄性白血病と診断される。17歳の青春真っただ中を当然のように謳歌していた佐藤さんに、突然降りかかった病い。17歳の少女は急性骨髄性白血病とどう向き合い、どう克服していったのか。そして現在、アロマセラピストとして仕事をすることになるある出合いについて訊いた。
病いに罹ったことは不幸なことではあったが、そればかりではなかった。
内出血と37度台の微熱が続く
現在、浜松市内でアロマセラピストとして働いている佐藤真夕さんは2014年、高校2年の12月、急性骨髄性白血病(AML)の告知を受けた。その告知は、前途洋々な少女にとって余りにも過酷なものだった。
佐藤さんが当時、通っていた高校の吹奏楽部は全国大会に出場するレベルの高さを誇っていた。だから練習も厳しく、ユーフォニアムの奏者として部活に明け暮れる日々を送っていた。
「本当はフルートをやりたかったのですが、希望する生徒が多すぎて選に漏れて、あまり人気がなかったユーフォニアムの担当になりました」
佐藤さんが体の不調を覚えたのは、2015年の夏のことだった。
「最初はそんなに意識はしていなかったのですが、体の柔らかいところ、例えば腕の内側や膝周りに内出血が見られ、友人から、『それ何?』と言われたりはしていました」
年頃でもあり、さすがに気になって近所の皮膚科を受診すると、医師からは「それは体質で、血管が弱いんじゃないか」との診断だった。
「なら大丈夫」と素直に受け止め、練習に明け暮れる夏の毎日を送っていった。
しかし、10月頃になると37度程度の微熱が続くようになり、さすがに異変に気づいた。
「全国大会直前で部活は休めないし、自分も休みたくなかったのです。倦怠感はあったのですが、それが部活での疲れなのか、よくわかりませんでした」
診察が終わった後、病院内で倒れる
12月になったある日、風邪をこじらせ扁桃腺が腫れて熱も39度台まで上がった。
「ちょうど12月の期末テスト中で、2日目まではなんとか頑張って受けました。その後、さすがにもうこれ以上、テストが受けられないほど憔悴して、母に連れられて近所にある耳鼻咽喉科を受診しました」
医師が喉の様子を診るや、慌てた様子でこう告げられた。
「総合病院に紹介状を書くので、すぐに向かってください」
「喉の奥が出血していたみたいで、出血の仕方もおかしいようなことを話されていました」
総合病院の医師は鼻に内視鏡を入れて診た後、「強めの抗生薬を処方しておきますね」と何事もなかったかのように言って、診療は終了した。
佐藤さんは「なんだ、何でもなかったんだ」と安心して帰宅しようとした、まさにそのとき意識を失い、病院内で倒れてしまった。
通りかかった看護師によって処置室に運び込まれた。しばらくそこで休息を取っていると、看護師から「貧血検査をしておきましょうね」と提案され、血液検査を受けることになった。だが、何度も採血され「貧血検査って、こんなに何度も採血するものだろうか」と、訝(いぶか)しく思った。
採血を繰り返していくうちに病院の診察時間はとっくに終わり、待合室で待っていた佐藤さんは看護師から「もう一度、詳しく血液検査したいので、夜間救急に回ってください」と言われた。
夜間救急でもまた採血されて、「私、貧血なのにこんなに血液を採って大丈夫なの?」と思ったという。
しばらくすると医師が「お母さん、こちらに来ていただけませんか」と、一緒にいた佐藤さんの母を呼びにきた。それを見て、「ドラマでこんなシーンを見たことあるな、自分は何か重大な病気かもしれない」と、少し不安な気持ちが湧き上がってきた。
急性骨髄性白血病と告知される
そこで出された結論はこの総合病院には血液内科がないので、近くの浜松医科大学医学部附属病院に病床が1床空いているので、そこに転院するということだった。
それを聞いて佐藤さんは「私、入院することになるんだ」と、ぼんやりとした頭で思ったという。
「その日はたまたま浜松医大病院が夜間救急の持ち回りの日に当たっていて、血液内科の先生や検査技師の方が揃っていたこともあって、すぐに検査してもらうことができました。そのとき診て頂いたのが私の主治医です」
1時間ぐらいですべての検査が終わったあと、医師から「君は落ち着いているようだから話しますが、病名は急性白血病です。明日、骨髄穿刺(こつずいせんし)をしてみなければ骨髄性かリンパ性かはわからないけど、急性白血病であることは間違いありません。いま危ない状態なのでこのまま入院していただくことになります」と告げられたのだ。
余りの事に置かれている事態が把握できず、頭の中ではただ「部活どうしよう」ということばかりを考えていたという。
「母は心配そうにしていましたが、私は部活が一番大事なときだったので、自分が抜けたら痛いな、そればっかりしか頭にはありませんでした」
ただ、いまでもはっきりと覚えている主治医からの言葉がある。
「いま白血病は治療も進歩していて難病指定も外れているので安心してください。出来る限りのことはしますので、不安に思わないでください」
白血病は「不治の病い」だ、と思っていた佐藤さんにとってはなんとも力強い言葉だった。
翌日、骨髄穿刺の結果、佐藤さんは急性骨髄性白血病と診断された。血小板が著しく減少していたため、すぐに血小板の輸血が開始された。主治医からは「あと1週間遅かったら、亡くなっていた」と告げられた。本当に間一髪のところだったのだ。
佐藤さんが罹患した急性骨髄性白血病とは、骨髄中で白血病細胞が異常に増殖して発症する。
特徴として貧血の症状として息切れや動悸、血小板が少なくなるため鼻血や歯茎からの出血、発熱などの症状があらわれる。
治療の基本は、骨髄中に増えた白血病細胞を死滅させるやり方だ。
主治医から「まず寛解(かんかい)まで持っていくために、寛解導入療法を行います」と言われ、翌日から抗がん薬キロサイド(一般名シタラビン)とアントラサイクリン系抗がん薬の2剤併用療法が始まった。
この寛解とは、骨髄中に存在する白血病細胞が血液中5%未満の状態のことを指す。
抗がん薬を投与すると白血病細胞だけでなく、正常な血液細胞も骨髄の中から減少する。
抗がん薬投与の後、自然に白血球が増えていくのを待つのだが、この期間は約4週間。白血球が回復した時点で骨髄穿刺を行い、寛解状態かどうかを調べる。
「吐き気で食事が摂れないことがあると聞いていたのですが、私の場合、胃のむかつきはありましたが、制吐剤が効いたのか、食事が摂れないというほどのことはありませんでした。確かに食欲はありませんでしたが、食事を摂らないと体のためにならないからということで頑張って食べて過ごしていました」
1週間で化学療法が終了し、休薬期間に入ると骨髄抑制がかかり、ウィルスなどに感染しやすくなるのでクリーンルームで過ごすことになる。
「この病院のクリーンルームは最新の設備を整えていて、私が入院した8Fの病棟の半分がクリーンルームで、廊下を自由に行き来することができました。それに病室の窓は大きく開放的で、圧迫感は全くありませんでした。隣の病室にいる方ともお話ができました。お友達とは直接の面会は叶いませんでしたが、両親とは面会することができました。
発症したときは17歳で、小児科で治療を受けるか微妙な年齢だったのですが、私は血液内科を選びました。救急で運ばれたときの先生が血液内科の先生だったので、血液内科を選択しました。それに私は高校生で体も大きかったので、ちっちゃい子の迷惑になってはいけないと思いました。でもいま思えば、大人を選んだことで院内学級も受けることができなかったので、そちらを選んだほうが楽しかったかな(笑い)」
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