いつか叶えたいという夢を持ち続けてほしい 13歳で急性骨髄性白血病に
エイキミナコさん 絵本作家・イラストレーター
絵本作家・イラストレーターとして活動するエイキミナコさんは13歳のとき急性骨髄性白血病と診断され8カ月の長期入院を強いられる。退院後、わずか半年で再発し造血幹細胞移植を行うため再入院する。その治療は想像を絶するつらさだった。
そのつらい治療に希望を与えてくれたのが、入院中に描いた絵を見た、男の子の「この絵、何度見ても飽きないんだよね」というひと言だった。その言葉を励みに絵本作家としての夢を諦めなかったエイキさんに、闘病中の子どもたちへのエールを語ってもらった。
疲れやすくなってクリニックを受診すると
現在、新潟県在住の絵本作家・イラストレイターのエイキミナコさんが体調の不調を覚えたのは、いまから20年前、中学1年13歳の冬だった。
エイキさんは中学に入学後、家から学校まで約30分自転車で登校していた。
1年生の冬ごろから自転車での通学が息切れしたり、疲れやすくなって、一緒に自転車通学していた友人にもついていけなくなってきた。
しかし、家族のみんなが健康だったので、そんな状態でも「少し疲れているのかな」と思うくらいで、何か重大な病気が潜んでいるかもしれないと疑ったことはなかった。
中学2年になった4月、さすがに病院で診断してもらおうと思うようになっていた。
それは保健の先生がエイキさんとすれ違うたびに、「顔色が悪いから一度、病院で診察してもらったほうがいいよ」と忠告してくれていたからだ。
その頃には自転車通学もできなくなっていて、さすがに心配し始めた母親に付き添われ近所のクリニックを受診した。診察した医師はすぐに、大きい病院を受診するように勧めたため、その足で市民病院を受診。検査の結果、即入院ということになった。
そのときは、医師から「普通の人なら這って歩くような状態で、よく我慢していたね」と言われるような状態だった。
急性骨髄性白血病(AML)と診断され、両親には伝えられていた。
エイキさん本人には知らされなかったのだが、急性骨髄性白血病は進行が速いため、医師はエイキさんにこのように言ったのだ。
医師から「あなたは8カ月入院です」
市民病院での入院は1日だけ、翌日には病院を移ることになった。当時、市民病院では小児がん患者の受け入れをしていなかったからで、新潟県立がんセンターに移ることになった。
急性骨髄性白血病と診断を受けたが、本人には本当の病名は伝えられることはなかった。
だからエイキさんは本当の病名を知らないまま入院生活を送くっていた。
「主治医からは違う病名を告げられたのですが、なんか長ったらしい病名だったので覚えられませんでした。私が母に病名を訊いても、母も覚えられなくて、なんか曖昧な病名を言っていたように思います。当時、私も能天気だったので、余り深くは考えてはいませんでした」
エイキさんはハッキリした病名もわからないまま、主治医から「あなたは8カ月入院することになります」と告げられたのだ。
「私は数日ぐらいの入院だろうと思っていたので、8カ月入院と聞いて本当にびっくりしました」
2002年5月9日からエイキさんの急性骨髄性白血病の治療が開始された。
急性骨髄性白血病の治療はまず多剤の抗がん薬による化学療法で白血病細胞を死滅させ、血液検査や骨髄検査のレベルで異常を認めない寛解(かんかい)を目指す完全寛解導入法を行う。
エイキさんは8カ月の入院中、多剤の抗がん薬治療を8クール行った。
抗がん薬治療での副作用はどうだったのだろうか。
「倦怠感や吐き気があって、食事が思うように摂れませんでした。とくに匂いに敏感になるので、布団の匂いや食事の匂いなどで吐いてしまうこともたびたびでした。あと白血球が減少しているので感染しやすくなっていて、すぐに高熱が出たりしていました。髪の毛も全部抜け、顔がむくんだりもしました」
そんなつらい治療を乗り越え、完全寛解したことで、8カ月後には退院することができた。
退院前に知っていた本当の病名
退院にあたって、主治医から本当の病名が告げられたのだが、実はその前に知っていたという。
「毎月、主治医から両親宛に病状を報告する手紙が送られていたのですが、その手紙がたまたま机の上に置かれていて、それを読んでしまったからです」
本当の病名を知ってどう思ったのだろうか。
「『やっぱりなぁ』と思いました。テレビなどで白血病の治療が特集されていて、その治療法や副作用が私と同じだと感じていたからです。だから『もしかして、私も白血病かな』と思っていました。ですから、本当の病名を知ったときには『私、死ぬのかな』と思って夜になって1人になると、怖くて眠れない夜が幾夜もありました」
母親に「本当は私、白血病ではないの」と幾度も尋ねた。母親も最初のうちは否定していたものの、根負けしてついに事実を認めた。
「だから、主治医から本当の病名を告知されたときは、みなさん、すごく深刻そうな顔をされていて、その雰囲気の中で告知されたのですが、『実は私は知っているのに』と思って聞いていました。それでも主治医から改めて『血液のがんです』と宣告されたときには、やはりショックでしたね」
半年後、再発し再入院
入院中、学校の勉強はどうなっていたのだろうか。
「病院のすぐ横にある中学校に学籍を移して、そこの中学校から院内に先生が来てくれていました。私が入院していたときは中学生が5~6人いたと思います」
「抗がん薬の副作用で、本当に体の具合が悪いときには授業を休んだり、先生がベッドサイドまで来てくれてそこで授業を受けることもありました。それほどでもないときには、院内学級の教室があり、そこで授業を受けていました」
授業を受けている時間は楽しい時間だったのか。
「私はそんなに勉強が好きなほうではなかったので、『大変で嫌だな』と思うこともあったのですが、先生が体調を気遣って本などを持ってきてくれたり、いろんなお話をしてくれたりして楽しませてくれました」
では退院してから、前にいた中学校に戻ることができたのだろうか。
「退院したといっても抵抗力が落ちているので、自宅で過ごしていました。勉強はマスクを着けて、しばらくは病院の中にある院内学級に通っていました。ずっと院内学級に通うことも出来なかったので、カツラを被って中学校に登校しました。修学旅行にも行くことができ、思い出もつくれました」
そうして1カ月に1度、血液検査や骨髄穿刺(こつずいせんし)などの検査を定期的に受ける生活を送っていたところ、ある日主治医から電話があった。
「検査の結果を伝えたいので病院に来てください」と言われ、病院に行くと「残念ですが再発していました。これからの治療は移植になります」と告げられ、再入院することになった。まだ退院後、半年くらいのときだった。
エイキさんは3人姉妹の末っ子で最初の入院当時、高校2年の次姉と骨髄検査で白血球の型が一致していることがわかっていた。
「自分が再発したことも悔しかったのですが、姉たちを巻き込んでしまったことに、申し訳ない気持ちでいっぱいになり、悔しくて涙が止まらなくなったことを覚えています」
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