25歳で整骨院を開業した理由 14歳で急性リンパ性白血病、17歳での再発を乗り越え
鈴木 誠さん ひじり野整骨院院長/柔道整復師
中学2年14歳のとき急性白血病を発症。17歳で再発。一旦はあんなつらい治療はもう嫌だと自殺しようと病院を抜け出したが死にきれず、病院に戻るとそこには自分のために親身になって泣いてくれた看護師長や医師がいた。彼らの説得でもう一度だけ治療を受けることを決断する。骨髄移植をなんとか乗り越え寛解したものの、今度は19歳で大腿骨骨頭壊死に。現在、北海道で整骨院の院長として患者に寄り添った施術を心がけている鈴木誠さんに、その闘病生活からなぜ柔道整復師を目指したのかを訊いた。
左足骨盤あたりに痛みが
鈴木誠さんは生来のスポーツ好きで、旭川市で中学の野球部に所属して部活動に汗を流していたが、父親の再婚に伴い中学3年の9月旭川から東京の中学に転校してきた。
2週間ほど経った頃だった。野球部での練習中、急に左足の骨盤のあたりに痛みを感じた。
母親に足が痛いと訴え、近所の整形外科に連れて行ってもらった。臀部に筋肉注射をされ一時的に痛みはなくなったのだが、またしばらくすると痛みが出てくる。それでも我慢しながら通学していたが、さすがに痛みに耐えられなくなって別の整形外科を受診し、MRI検査をしたがそこでも痛みの原因はわからない。
痛みの原因がわからないまま2カ月が過ぎた頃、授業中に痛みがひどくなり足が痙攣し始めた。さすがにこれは普通ではないと感じた鈴木さんは、「足が痙攣して痛いので、帰宅してもいいですか」と先生に申し入れ、帰宅した。
母親に「足が痙攣していて痛い」と話し、近所の内科を受診、血液検査をした。その医師は血液検査の数値を見るなり、「大きい病院に紹介状を書きます」と言って、国立小児病院(現国立成育医療研究センター)を紹介した。
その病院でも最初はリウマチを疑われ、数回にわたる骨髄穿刺(こつずいせんし)の結果、やっとその痛みは急性リンパ性白血病(ALL)が原因だったことが判明した。
「僕はもうじき死ぬんでしょうか」
14歳の鈴木さんには直接その病名は告げられず、主治医は両親にだけ告知した。両親からその病名を聞かされた鈴木さんは主治医に直接、こう尋ねた。
「僕はもうじき死ぬんでしょうか」
その当時、映画やテレビなどでは白血病の患者は死ぬと相場が決まっていたからだ。
医師からは「いまはいろんな薬があるので、良くなる病気だよ」と言われ、少し安心した。
中学3年の11月のことだった。
そこから1年間、急性リンパ性白血病治療のため入院生活を送ることになった。
がん細胞を殺すための化学療法の副作用はどうだったのだろうか。
「もう20年以上前の話なので、そのつらさはいまではだいぶ薄れてはいるのですが、その当時はつねに吐き気があって、食事はまともに摂れませんでした。吐いても、何も食事が摂れてないので胃液しか出てこないような状態でした。眉毛はかろうじて残りましたが頭の毛が全部抜けたときはショックでした。いま思えば薬の副作用はつらかったのでしょうが、まだ14歳で、主治医からは治る病気だからと言われていたので、なんの疑いも持ちませんでした」
そして、鈴木さんはベッドサイドでマンツーマンでの授業を受けながら、長期の入院生活を送っていった。
再発、自殺しようと病院を抜け出す
化学療法が奏功し、がん細胞も消えて寛解し退院にこぎつけることができ、その後1年間は通院治療を行った。
高校受験は1年間見送らざるを得ず、退院してから、改めて受験して合格した。
高校2年の10月頃、中間テスト直前で、家で試験勉強をしていたときのこと。
突然、中学3年のときに経験したように左足の骨盤部分が痛くなってきた。
「なんかおかしいとは思いましたが、そのときはまさか再発したとは思いもしませんでした」
痛みに堪えるため、立ったまま勉強してみたり、寝っ転がって勉強してみたり、風呂に入ったりいろいろ試みたのだが、痛みは一向に引く気配がなかった。
さすがに我慢できなくなり母親に話し、前の病院に検査入院することになった。そこで痛みのある部位の骨の組織を採取した結果、再発と知らされたのだ。
「再発」と聞いた鈴木さんは、頭が真っ白になって何も考えられなくなったという。
「最初の抗がん薬治療の副作用がきつく、もし再発したら、もうあんなつらい治療は受けたくないと決めていました」
主治医は、高校を卒業してから本格的な治療に入るなど治療方法を何案か出してくれたのだが、鈴木さんは治療は受けないと決めていたので、何を提案されても「もう治療は受けません」と頑なに拒み続けた。
「そのときは本当に絶望して、自殺しようと思っていました。親が帰ったあと、看護師さんが少なくなる深夜を狙って病棟を抜け出しました。死のうと思って病院を抜け出したものの、死ぬのが怖くなり病院に戻ってみると、親や主治医の先生や看護師さんがみんな心配して僕を捜してくれていたことを知りました。そしてその当時の看護師長さんが泣きながら僕に『もう一度、頑張って医療を受けよう』と言ってくれました。赤の他人である自分のために泣いてくれる人がいるということが、僕のこころに刺さったので、『もう一度だけ治療を頑張ってみます』と言って、治療を受ける決意をしました」
造血幹細胞移植を受ける
鈴木さんは3人兄弟の真ん中で、HLA(白血球型)が一致した長兄から提供された造血幹細胞を移植する手術を受けることを決断した。
しかし、これがなかなかにつらい治療だったのだ。
造血幹細胞移植を受けるにあたっては、まず移植前治療を行う必要がある。
1週間に渡り放射線を全身に照射し、複数の抗がん薬を24時間連続して点滴投与することで、患者のがん細胞と造血幹細胞を根絶させ、ドナーからの造血幹細胞を患者に生着させるための治療だ。
「最初の抗がん薬治療も大変でしたが、この骨髄移植はもっと大変でした。口腔内から胃腸から全部爛れてしまってかなりつらかったですね」
しかし、入院期間中もただただ、つらいことばかりではなかった。
鈴木さんが入院していた病院は小児専門の病院だったので、未就学児もたくさんいて高校2年生の鈴木さんはその子たちからみれば兄のような存在で、同じ病棟の子どもたちもよく遊びにやって来た。
「僕のからだの調子が良ければ、彼らと一緒に遊んだりしていました。それはつらい闘病生活を送っていた僕にとって楽しい時間でした」
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