それでも私が紙芝居をやる理由 下咽頭がん4期治療中に前立腺と膀胱にがん、そして再発

取材・文●髙橋良典
撮影●「がんサポート」編集部
写真提供●森下昌毅
発行:2022年6月
更新:2022年6月

  

森下昌毅さん 三代目紙芝居師

もりした まさき 1955年東京都荒川区に3代に渡る紙芝居一家の長男として生まれる。1974年高校卒業後、大手OA機器メーカーに入社。2009年会社勤めの傍ら紙芝居上演を始める。2016年10月下咽頭がんステージ4と告知。2017年5月に膀胱がん、前立腺がんの全摘手術を受ける。2018年10月下咽頭がんが再発し12月に摘出手術を受ける。現在、月1度、荒川区あらかわ遊園で紙芝居を上演、また千代田区九段の昭和館でも上演している

紙芝居一家の3代目として生まれた森下昌毅さんは、父の跡を継いでボランティアとしてイベント会場などで紙芝居を上演していた。そんな2016年10月のある日、左首筋に鶏卵大の腫れに気づく。検査の結果、下咽頭がんステージ4と診断。化学放射線療法でなんとか声帯は残せたものの、入院中に膀胱と前立腺にがんが見つかり全摘手術を受ける。2018年10月に下咽頭がんが再発。次々と森下さんに襲い掛かるがん。その闘病を乗り越え、現在も元気に紙芝居上演活動する森下さんに病とどう向き合ってきたのかを訊いた。

予想もしなかった下咽頭がんステージ4

診断時のショックは言葉では言い表せないものがありました

昭和20年代後半から40年代前半にかけて子供たちの楽しみは、カチカチという拍子木と共にやってくる紙芝居だった。

祖父、父と紙芝居一家の長男として生まれ、会社勤めをしながらボランティアで、あらかわ遊園で紙芝居を上演していた森下昌毅さんが、左首の異変に気づいたのは2016年10月7日の朝のことだった。

洗面台で顔を洗おうとして、鏡に映る自分の顔を見て驚いた。左首が鶏卵の大きさに腫れていたからだった。

「前日までは何でもなかったのに、どうしたのだろう。昨夜カラオケで歌い過ぎて、扁桃腺にバイ菌でも入ったのかな」

大きく腫れてはいるものの、痛みはない。

とにかく、どうしたのだろと近所の耳鼻咽喉科を受診した。

そこではCTがなかったので、近くの総合病院で喉のCTを撮影して、その画像を持ってクリニックに戻った。CT画像を見た医師は、左側下咽頭部に白いブツブツがあるので「取り敢えず、抗生物質を投与して様子を見ましょう」と言った。

4日間点滴投与を受けたものの、腫れは一向に引かなかった。別の病気を疑った医師は、ある大学病院に紹介状を書いてくれた。

10月12日、その病院の耳鼻咽喉科を受診し、下咽頭部位にファイバースコープを入れた検査で、写真10枚と、細胞を2カ所、採取した。

「検査結果が判明する1週間後にもう一度、来院してください」と言われ、森下さんは病院を後にした。

1週間後。「残念な結果ですが、がん細胞でした」

続けて「下咽頭がんステージ4です。手術は受けられる状態ではありません」と告げられた。

森下さんは予想もしていなかった結果に一瞬、キョトンとして「ああ、そうですか」と応えるのが精一杯だった。

「60歳で定年になり、再雇用はされたものの、役職を離れてやっと肩の荷が下り、時間もできて、これからは紙芝居やゴルフや海外旅行など好きなことができると思っていた矢先のことだったので、そのときのショックは言葉では言い表せないものがありました」

父も喉頭がんで声を失う

父の2代目森下正雄さんと

10月20日にCT検査、21日にPET検査を行い、入院手続きまで行ったのだが、森下さんの妹からの「セカンドオピニオンを受けてみたら」の言葉に心を動かされた。

「妹が、『お父さんが喉頭がんのときに診てもらった、がん研有明病院の川端先生に診てもらったら』と言ってくれたので、そうしようと思いました」

実は紙芝居師として活躍していた父の正雄さんは、1990年、66歳のとき、喉頭がんに罹患していたからだった。

正雄さんがある地方で紙芝居を上演した際、録音したテープを送ってくれた人がいた。

正雄さんは手術で声を失ったものの、その録音に合わせて口パクながら2008年、85歳で亡くなるまで現役の紙芝居師として活躍した。

森下さんが紙芝居をやろうと決断したのは、正雄さんが亡くなった1年後の2009年のことだった。

父の紙芝居仲間から折に触れ「森下くん、せっかくお父さんの残した『黄金バット』があって、代々森下家は紙芝居一家なんだから、やってみたらどうだ」と言われていた。

しかし、「いまは会社勤めなので、定年になったら考えますよ」と軽く受け流していました。でも、その方は諦めず、紙芝居を上演している場所に連れてっては「やってみな」と言うことが何度もあった。

そんな経験も重なり、「父親の残した『黄金バット』は世界に1つしかない、それを失ってはいけない」と思うようになっていった。

そして正雄さんが亡くなった翌年2009年に森下さんは父の跡を継いで、会社勤めの傍ら、土、日にイベント会場で紙芝居をすることを決断した。

化学放射線療法を選んで声帯は残った

左首リンパ節に転移したがん切除術の後で

26日、医師に「父親の喉頭がんを摘出してもらった先生のいる、がん研有明病院でセカンドオピニオンを受けたい」と申し出た。その医師は川端医師の教え子だったようで、森下さんの申し出を快く承諾、紹介状と検査データを渡され、28日、がん研有明病院頭頸科の川端医師を訪ねた。

改めて受けた診断結果は、下咽頭がんステージ4、下咽頭部扁桃腺がんによるリンパ節複数転移。処置としてまず、リンパ節に転移した複数のがん削除手術を行い、その後、下咽頭部への化学放射線治療か喉頭部全摘手術を提示された。

「声帯を取らなくてすむなら、それにこしたことはない」、そう思った森下さんは迷わず、化学放射線治療を選択する。

11月2日、CT検査の結果、左首リンパ節に転移したがんは進行が速く、左首の筋肉や神経4本、動脈・静脈にまでの転移が見つかった。

11月9日に入院し、翌10日に左耳下からあごまでをJの字に開いて神経4本と動脈、静脈を削除する手術を5時間に渡って行った。

「リハビリで今は改善しましたが、術後は左手がまったく上がらず、味覚障害もありました。また、2月23日までは放射線照射の影響で喉が焼け、食事が喉を通らないので胃ろうで栄養補給していました」

術後、2月中旬まで抗がん薬、シスプラチン点滴治療を3クール、放射線治療を33回行った。

シスプラチンの副作用はどうだったのだろうか。

「吐き気などはなかったのですが、幻覚ですね、例えば夜、眠る前に病室の窓から外のビルの灯りを見ると、その光が自分に向かって弾丸が飛んでくるような感じがしました。また、ポスターを見たりすると、その画像が自分に向かってくるように感じたりもしました。また、三途の川に引き込まれていくような妄想が湧いてきたこともあって、すごく怖くなったこともあります」

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