誰かが笑顔になるために自分の人生を使えたら 原発不明がん 4b期子宮体がんの薬物療法で治癒
小松友恵さん 美容ディーラー
大手鉄鋼メーカーから転職し、美容ディーラーとして働いていた小松友恵さん。右股関節周辺に痛みを覚えるようになった。近所の整形外科では肉離れと診断されたが痛みは増すばかり。産婦人科を受診することを勧められ、受診すると重大な病気の疑いがあると大病院を紹介される。
そこでも病名はなかなかハッキリせず、最終的に子宮体がんステージ4bと診断されるも、主治医から治療法はないと宣告される。そこからの奇跡的とも思えるがんからの克服体験を訊いた。
「肉離れ」は、こんなに痛いんだ⁉︎
美容ディーラーとして働いていた小松友恵さんに、体調に異変が起こったのは2020年11月頃だった。右股関節周辺にごくごくわずかだが、筋肉痛のような痛みが出てきた。しばらくするとその痛みは段々ひどくなり、近所の整形外科を受診する。
「これは肉離れですね」と診断され、病院内に併設されている施設でストレッチの指導を受けることになった。
「これまで経験したことがなかったので、『肉離れって、こんなに痛いんだ』と、そのときはのんきに思っていました(笑)。ストレッチを受けた日には痛みは多少治まるのですが、翌日になるとまた元に戻る。そんな繰り返しが続きました」
ストレッチには週1回3カ月ぐらい通ったが、一向に痛みは改善されない。それどころか、痛みは増すばかりだった。
「右股関節がポッコリ腫れてきていたのですが、医者から肉離れと診断されていたので、そんなものなのか、と思って痛みに耐えていました」
そのような状況が続いていたとき、仕事で知り合った産婦人科医に話をすると、「その部分は超音波で診ることができるので、一度、産婦人科を受診したら」と、アドバイスをもらった。
小松さんは早速、地元の産婦人科を受診して、超音波検査を受けた。
エコーを見た医師から「これはただ事ではない。市立総合病院に紹介状を書きますから、そちらを受診してください」と言われた。
1週間後、市立総合病院でCTやMRI検査を受けたが、そこでも病名の診断は付かず、さらに大学病院を紹介された。
「撮影された画像を見て、大きい塊があるのがハッキリとわかりました。先生に『この塊はやばいものなのですか』と尋ねると、『なんとも言えないね。良性なのか悪性なのか、または血の塊の場合もあります』と言われました。もしも血の塊ならそれを抜けば良くなると思い、そのときには、まだそんなに重大なことではないと思っていました」
子宮体がんステージ4bの宣告を受ける
1週間後、大学病院を受診し、再度CT、MRI検査を受け、子宮の細胞診も行った。
さらに精密検査をするために1週間の入院を提案され、翌週に入院することになった。
「大学病院では、『悪性腫瘍の可能性がある』と言われました」
事態は悪いほうにどんどん進んでいだが、楽天的な性格の小松さんはそんなに心配はしていなかった、という。
「まだ確定したわけではないし、がんでない可能性もあると思い、そんなに不安な気持ちにはなりませんでした。それまで大病したことがなく、病院のお世話になったこともなかったので、病院で検査を受けることが新鮮な驚きで、すべてが興味津々でそちらの気持ちのほうが勝っていました」
1週間検査入院をしたが、それでも病名はわからなかった。そこでもう一度、最初から再検査をすることになった。
その結果、医師からこう告知された。
「もう一度、子宮の細胞診をした結果、子宮体がんステージ4bの末期がんで手術はできません。また小松さんのがんは特殊なタイプなのでハッキリした治療法もありません」
子宮内には腫瘍はなく、子宮外に12㎝の腫瘍があり、骨盤と骨に転移していた。座骨と恥骨は溶けてしまっていて、写っていなかった。
主治医から「明日どうなってもおかしくはない」とも告げられた。
「それまで医師からは、がんの種類が判明しない限り病名は特定できないのでと言われていましたが、私は9割がたがんかな、と何となく感じてはいました」
これまで病名が特定されなかったのは「原発不明がん」のためハッキリとした診断が下せなかったのだろう。
転移巣があるが、原発巣が見つからない。このようながんを原発不明がんといい、がん全体の1~5%を占める。転移巣の組織を調べてその原発がんを推定して治療することになる。
告知されたときは、母と弟が立ち会ってくれていた。
「私もそうなのですが、うちの家族は全員、飄々としているので、私ががんで治療法がないと告げられたときにも、ああ、そうですか、といった風でした。後で訊いてみると、私が死ぬ感じじゃなかったので、多分、大丈夫だろうと思っていたそうです。
『自分が死ぬわけはない』という根拠のない自信はありましたが、現実を前にすると、死にそうだなと気持ちが揺れていました。先生の言葉はネガティブなものだったので、落ち込むことが何度もありました。そんなときに家族や友人や仕事仲間が、『絶対、大丈夫だよ』と励ましてくれたことで、何とか落ち込む気持を乗り越えられました」
「大学病院の整形外科の先生からは、『こんな状態になっているのによく我慢できましたね。この痛みは出産の痛みと同程度ですよ』と言われました」
そして主治医からはこう告げられた。
「もし小松さんが80歳のおばあさんなら、このままなんの治療もせずに余生を送ってもらうことをお勧めします。でも、まだお若いので、可能性として抗がん薬治療といった選択肢も残されていますが、どうされますか」
TC療法の結果、劇的効果が
小松さんは抗がん薬治療を選択し、2021年3月からTC療法(パクリタキセル+カルボプラチン)を3週間に1度のペースで行うことになった。
3月から化学療法開始にあたって、実家のある福島に戻って「地元の病院で行うか、それともいまの神奈川の病院で行うか」と言われた。どちらかの病院で始めた場合、変更はできないとも告げられたが、これまでの経過がわかっている神奈川の病院で受けることにした。
小松さんは5月頃に実家に戻ったが、神奈川の病院での抗がん薬治療のため、定期的に福島から神奈川まで車で片道4時間かけて通った。TC療法に要する時間は4時間、計12時間の大仕事となった。
「最初は、副作用はほとんどありませんでしたが、3回目ぐらいから髪の毛が抜け始めました。4~5回目のときからは吐き気が出てきて、6回目以降から痺れが加わってきました。あとは浮腫みですね。それでも、先生からは『小松さんは副作用が少ないタイプですね』と言われました」
3回目ぐらいから、小松さんに劇的変化が現れる。
2021年4月ぐらいまでは激痛があって、歩くことも困難だった。寝ても覚めても痛くて、鎮痛剤を飲んでも痛い状態が続いていたのに、5月中旬あたりからその痛みが、ピタッと止まったのだ。
「これはよく覚えているのですが、毎日、夜中の2~3時になると薬が切れて、激痛で目が覚めるんです。5月中旬のある日、朝方までぐっすり眠っていた日があったんです。そのとき痛みがまったくゼロになっていたと気がついたんです」
その日から、痛みという痛みは一切なくなり、がん細胞も少なくなってきて、腫瘍も小さくなった。
「3回目ぐらいから急にがん細胞と痛みが減ってきて、先生から『何で、でしょうね』と逆に尋ねられました。通常、TC療法は11回連続して行うことはほとんどないとのことでしたが、私の場合は2回目以降から、どんどん右肩下がりでがん細胞の数値が下がっていきました。ですからこのまま続けて、がん細胞がゼロになるまで続けていこうということになりました」
そして、TC療法を始めて9カ月後には治癒状態までに回復する。
腫瘍は右と左の両方にできていて、骨転移もあったが、骨の中のがん細胞もゼロになって、左側の腫瘍は消え、溶けてしまった骨は元通りに戻った。
「右側の腫瘍はあるにはあるのですが、それも石灰化していて、腫瘍があったところの周りの骨が溶けて空洞のようになっていましたが、腫瘍が石灰化することで骨の代わりになってくれています」
TC療法が終了して、小松さんは福島の大学病院に転院したが、そこの主治医も小松さんの症状改善には驚いていた、という。
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