「幸せな生き方」を考える
今は、花と遊んでときどき仕事
乳がんになって
1990年花博。パキスタン大使夫婦と
1995年ユニバーシアード大会。スイス大使を迎える
何気ない日常の生活では、つい不満を感じたり、愚痴をこぼすこともあります。でも本当は心の底で「普通の暮らしこそ奇跡」と思っているのです。車を運転していても、ときどきヒヤッとします。最近も身近な若い人が急に病気になり、あっという間に亡くなってしまいました。もろく、はかなく、消えてしまってから気づく「今生きていることの幸せ」。
あまり意識していないけれど、私達はさまざまな危険の波を掻き分けながら歩いてきて、今の地点にいる。努力などよりもっと大きな幸運に支えられて、存在していると思うのです。
1999年、七夕も近いある夜、寝返りをした瞬間、胸にちかっと軽い痛みを感じました。思わず両胸のあちこちに触ってみると、右胸乳首の少し右上に小さなしこりが指に触れました。間違いであって欲しいと思っても左にはないものがそこにある。ろくに眠れないまま朝を迎え、何かあると駆け込んでいた大阪の総合病院へ走りました。53歳も後半になり、社会人になった長男、長女に続いて次女も大学生と、子育ても一段落し、ほとんど趣味のように思っていた仕事が私の生活感のかなりを占めていたころでした。
病院では触診した医師がおかしいと判断したのか、すぐにマンモグラフィ、2日後に超音波検査。その日のうちに結果が出ました。残念ながら、初期の乳がんということで、大きさは直径1.5センチほど、温存が可能ということでした。
ある程度覚悟していたので、ひどいショックは受けませんでした。中学生のころ、肺浸潤で学校を休んだこともあり、漠然とした健康への諦めもあった一方で、「がんにまでならなくても」という気持ちもありました。
でも続いて、「今まで色々幸運に恵まれていた。このくらいの不幸があっても仕方がないであろう。家族の誰かがなるとしたら、私がなるのが妥当だろう。両親を見てくれている姉にも、早くに夫を亡くした妹にも、自営業で頑張っている末の妹にも、誰にもなってほしくない」などと思いました。
いろいろ理屈をつけることで、なるべく冷静に事実を受け止めようとしていたのかもしれません。とはいうものの心の中を冷たい風が吹き抜けていくような寂寥感がありました。
乳房温存ではなく切除手術を選択
心配した姉が「乳がんの名医と言われる医師に手術してもらうべきだ」と強く言ってくれたことに従い、かねて友人から聞いていた医師に診てもらうことにしました。その医師の診断は的確で処置も早く、2日後に出た結果は初期ではなく2期であるということ、手術は乳房の温存手術ではなく切除のほうを勧められました。
右と左の乳房の大きさに違いがあることと、右乳首が陥没していて、下にがん細胞が隠れている可能性があると言うのがその理由でした。長男に授乳した後から大きさに差はありましたし、陥没についても、もともとのような気もしましたが、これとても主観的なことでした。
「前の病院では温存できると言われましたが」と言うと、「温存したいのなら、できなくはない」とのこと。手術が始まる直前まで「どちらにしますか」と尋ねられましたが、切除に決めました。理由の第1は温存による5パーセントという局部再発率でした。
再発率は限りなくゼロに近づけたい(今では結果はほとんど同じと言われています)。一応仕事を続けるつもりで、温存の後5週間続く放射線治療より早く1つの区切りをつけたいという思いと、何千人もの患者を診てきた医師の最初の直感に従おうという気持ちもありました。
手術は無事終了しました。術後は痛みよりも胸にきつく鉄板を巻きつけたような圧迫感があり、それが日一日と薄らいでゆきます。入院中は見舞ってくれる家族や、文字通り同病相憐れむ仲間達との楽しいと思えるような時間もありました。
術後治療の迷い
1月以上たってから出た病理検査の結果は浸潤性乳管がんの充実腺管がんで、血管、リンパ管への浸潤はなく、リンパ節への転移はゼロでした。ほっと胸をなでおろしたのはいいが、次が悪い。俗に顔つきと呼ばれる細胞異型度、悪性度が良くない。つまり再発の危険性が高いということです。それにホルモンレセプター(受容体)が2種類共にマイナスでホルモン治療を受けることができず、10年間生存率は80パーセントから少し下がるとのこと(自分がその80パーセント近くのほうに入れるのかどうかはわからない)。
「注射か経口どちらかの抗がん剤治療をしたほうが良いと思うが、自分でどちらにするかを決めて欲しい」と言われました。決められなければ比較臨床試験のためのコンピューター診断(つまりくじ引き)に任せるという方法もあるというのです。これには本当に困ってしまいました。自分の治療の結果が後の人の役にたつというのは大変嬉しいことですが、わからないとはいえ、もう少し両方のメリットとデメリットを検討して、できることなら自分で答えを出したい。自分の意志に関係なく、コンピューターに決めてもらうというやり方には、どうも納得がいきません。
乳がん患者の会である「あけぼの会」に紹介してもらった医師に相談すると、1時間近くも話を聞き、帰り際には医師のための専門書まで、素人の私に貸してくれたのでした。それを深夜まで読んでいるうちに、自分に該当すると思われる部分があり、そこには生存率についての、かなり厳しい数値が書かれていました。
「もう長く生きられないかもしれない」。静かな夜の1人だけの空間に、悲しさがひたひたと押し寄せてきました。そのときの闇に落ちていくような悲しみが今も心によみがえってきます。
その先生の意見や夫の大学時代の先輩で外科医になっている人の意見も参考にして考えた末、リンパ節への転移が無いことを根拠に副作用の少ない経口の抗がん剤を2年間飲むことにしました。
2年間の服薬が済み、もうすぐ7年目を迎える今まで、不安はいつもあって、検診予定日より早く病院に駆け込むことがしばしばです。腋のリンパ節郭清により、手術側の腋が引きつっているのは仕方ないとしても、反対側の腋や胸がよく痛むのです。でもいつも「何でもない」と言われて、今のところ事なきを得ています。
仕事を辞め、ゆっくりとした生活を心掛ける
術後1年経ったころ。スペインに旅行に
病後しばらくは本を読み漁ったり、講演会にでかけたりしましたが、同じ病院で手術した人の中には「病気のことはあまり考えないことにしている」と言う人もいます。がんは精神的な病気でもあると思います。うまくいく人もあれば不運な人もある。知識が人を助けることもあるが、考え過ぎてストレスを溜めてもいけないし、そのコントロールが大切なように思われます。
退院後しばらくして、夫が気分転換に家族旅行を計画してくれて以来、時間を作っては旅行をしています。行き先は近場から海外まで色々です。振り返ってみれば、必須である家事や子育てを除くと、20数年間、仕事をすることが自分の中で1番の優先順位を占めていました。夫の社会人留学に伴う2年のアメリカ生活から帰国後、勉強をして合格した通訳ガイド試験、その資格をもとにやってみた通訳ガイドの仕事、試行錯誤を繰り返した他の仕事……。
「やってきたことに悔いはないが、もう残された時間は長くないかもしれない」。病後3カ月ほどして一応復帰したフルタイムの仕事は数カ月後に辞めて、のんびりゆっくりとした生活を心掛けることにしました。
好きに生きていく
『花と遊んで ときどき仕事』
牧歌舎 1470円(税込)
その翌年、夫までが初期の胃がんになり、夫婦して「残りの人生の生き方」を問われることになりました。「思い残すことの無いようにやりたいことは全部やろう」と改めて思いました。
若いときに建てた実用的な家を売り、夫の退職金も一部使って、少し離れた所にもう少し趣味を取り入れた2軒目の家を建てました。家を建てることは最初から最後までとても楽しいことでした。その家で好きなガーデニングに精出して、春には宝塚市の催しである「オープンガーデン」に参加し、家の庭を町の方々にお見せしています。
でもまたまた「遊びだけでは生きがいがない」と思い出して、PET検査で異常のなかった4年前から、少し仕事もすることにしました。いろいろ遠回りもしたけれど、やはりもう1度やりたいと思った通訳ガイドの仕事です。
さまざまな思いを綴ったエッセイ集『花と遊んで ときどき仕事』も昨年6月に出版しました。「好きに生きていく」というのがその終りのメッセージなのですが、今はそれに加えて「支えてくれた家族、友人、仕事、関わる人みんなが幸せを感じられるように、できることをしたい」と思っています。「人は自分の幸せよりも人を幸せにして初めて本当の幸せを感じる」と思うからです。
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