末期がんの祖母と一緒に過した1年間
祖母への恩返し……知さん、本当にありがとう

文:黒澤由紀子
発行:2006年4月
更新:2013年4月

  

私の祖母は東京生まれの東京育ちですが、祖父が秋田出身です。娘である私の母は、秋田に嫁ぎ、私はそこで生まれ育ちました。

私は高校受験のときに祖母を頼って上京することを決心しました。もちろん最初は両親も反対しましたが、祖母が「私が面倒見てあげるからいらっしゃい」と言ってくれたおかげで東京での生活がスタートしました。祖母は私のおじにあたる息子と2人暮しでしたので、私のことを本当にかわいがってくれました。結局、大学まで祖母の家から通わせてもらいました。

祖母のことは「知さん」と呼んでいました。知さんと一緒にいると親子と間違えられることもたびたびでした。実は今年が、上京して10年目だったので、4月に「一緒にお祝いしようね」と言っていたところでした。でも、それはかなわず、2005年12月5日に77歳で息を引き取りました。

末期の肺がん。治療はしないという選択

祖母は2004年の夏から咳が続いていたのに、なかなか病院を受診しませんでした。元来病気1つしたことがなく、仕事は皆勤賞、お友達と出かけたり、とても活動的な人でした。

11月のはじめに近くの医院で、肺に塊のようなものを指摘されていたらしいのですが、入院や手術が大嫌いだった祖母は、私たちに内緒にしていたのです。でも、11月中旬になって、ようやく祖母の家から1番近いS大付属病院を受診することになりました。

しかし、受診したその日に、レントゲンを見て「あなたはがんですから、とりあえずこっちの病院よりがんセンターに行きなさい」と言われてしまったそうです。祖母はたった1人で、突然告知をされてレントゲンと紹介状をもらって、家に帰ってきたそうです。

母から私に「おばあちゃんがんなんだって」と連絡が来ました。その後、秋田から上京してきた母と私も同行して国立がん研究センター中央病院を受診しました。先生はとても丁寧な方で「前の病院で何を言われたかわからないけれども、この病院で確定するための検査を一通りして、それからがんかどうかはっきりさせましょう」と言っていただきました。

そして、検査入院となりましたが、祖母が入院するのがいやだと駄々をこねて、説得するのに1週間かかりました。入院は約1週間、CT、MRI、骨シンチ、肺の腫瘍に直接針を刺す針生検などの検査を行いました。祖母は入院中も動き回っていました。年末には退院できたので、秋田から父や私の妹も東京に来て、一緒にお正月を過ごしました。

年が明けて、結果が出揃いましたが、やはり肺がんという診断でした。「転移は骨と脳に少しあるようだが、高齢だし、病状としては末期の範疇に入るので治療をどうするか……放射線治療、化学療法、そのまま過ごすなどいろいろな選択肢があるけれどもどうしますか?」と言われました。

祖母は、がんとわかった時点から「治療はしない」と言っていたので、私がおじを説得しました。また、母には祖母が自分から伝えていました。結果、みんな祖母の希望を受け入れるということで納得し、今後は様子を見ながら家で過ごすということで一致しました。

自宅に戻り、残りの時間を楽しく過ごす

写真:2004年2月、祖母(中)、母(右)と3人で、1泊旅行に
2004年2月、祖母(中)、母(右)と3人で、1泊旅行に

その後は、月に1回通院することになりました。もし、急な入院が必要になった場合に、がんセンター中央病院ではすぐに入院できない可能性があるということで、最初に受診したS大学付属病院と交互に受診することになりました。

2月には親戚の提案で、祖母と母と私の3人で富士山の見える温泉宿に泊りに行きました。観光であちこち行くのに不自由はありませんでしたが、やはり疲れやすく、以前の元気な祖母とは違うという印象を持ちました。

受診には私が仕事の都合を付けて同行することになりましたが、まだまだ1人で行動できる祖母を病人扱いすることを何よりも祖母自身が望みませんでしたので、毎回病院の玄関で「待ち合わせ」をするようにしました。そして、ただの病院との往復にならないように、帰りにはランチをしたり、“銀ブラ”をしたり、時には映画を見たりしました。

祖母ができるだけ楽しいことをしたいと言っていたので、3月にはディズニーシーに行って、その他にお台場などにも一緒に行きました。そのころは、友達と会うよりも祖母と一緒に出かけるほうが多いくらいでした。

秋田の父方の家族からの提案もあり、祖母は4月の末に法事で秋田に行くついでにしばらく残ってのんびり過ごすことになりました。空気も食べ物もおいしいし、1人で山に登ってしまうほど元気で楽しい日々を過ごしたようでした。結局秋田に滞在したのは約2カ月間。顔つやもよく、体重も5キロも太って帰ってきました。不思議なことに、それまでは1カ月に1センチずつ大きくなっていた腫瘍も、その期間は変化がなく、がんセンターの医師も「秋田の暮らしが合っていたのでしょうね」と言ってくださいました。

東京に戻ってきてからは、私が積極的に連れ出さなくても1人で行動ができるようになっていました。しかし、2005年の夏は猛暑で、祖母は体調を崩してしまいました。そこで、8月はまた秋田に滞在することにし、ねぷたや、いろいろなお祭りを見たりして過ごしていました。9月に東京に帰ってきたときには、秋田で転んで怪我をしてしまったことと、帯状疱疹になってしまったこともあり、私が泊り込みで世話をしました。

10月になると、だいぶ胸の痛みも出てきて、主治医から左肺は腫瘍でほぼ埋まりつつあると言われました。入院して検査をしてはどうかという提案がありましたが、祖母は嫌がっていました。

病院が大嫌いな祖母にとって、どのように過ごすことがいいかと思っていたのですが、私の勤めているクリニックの先生から往診してくださるとの提案があり、私もちょうどクリニックの近くに引越しをする予定だったので、祖母に私の家に来てもらってできる限り面倒をみたいと思いました。

まず祖母に話したところ「良いわねー、またあなたと一緒に住めるのね」と言って喜んでくれましたが、最初母は「そんなことはさせられない」と言っていました。でも、おじは祖母の面倒を見られないし、何か緊急事態が発生したら私がすぐに駆けつけられること、また先生の往診も近所なのですぐにお願いできることなど、好条件がそろっていたので、最終的には私の提案が通りました。でも、私だけに負担をかけてはいけないと、母は仕事を休んで上京することになりました。

悪化する病状。家族で付きっきりの看病

引越しをする間に検査入院をしました。入院はS大付属病院でしたが、たった1週間の間に同室の入院患者からの陰湿ないじめにあってしまいました。それが相当にストレスだったようで、退院した後には、ほとんど動くことができなくなってしまいました。また、痛み止めを自分で管理していたのですが、それを間違って2種類いっぺんに飲んでしまったことがありました。そのときに、「ポワーン」とした状態になってしまい、痛みがまったくない状態になったためか、どんどん痛み止めの薬がほしくなってしまったようなのです。そのようなこともあったので、早めに退院して私の部屋に来てもらうことになりました。

退院後しばらくすると、しきりにトイレに行きたいと訴えるようになりました。夜はせん妄のような症状も出てきて、さっき行ってきたと思ったらすぐにトイレに行きたがり、あまりに落ち着かないため、先生の提案で、布団のそばに「おまる」(簡易便器)を置くことになりました。

母は以前にヘルパー2級の資格を取っていたので、祖母の介護は母が全面的にやってくれました。日中は母が、夜は私が担当しました。私の仕事がとっても忙しい時期に、救世主のように妹が秋田から来てくれました。

しかし妹が来て2、3日したあたりで痴呆のような症状が出てきてしまいました。以前から脳に転移していることは言われていたので、それが悪化したのかもしれません。祖母は私以外の人を認知できなくなり、私がいないと落ち着かないようになってしまいました。最後のほうは私よりも母のほうが中心となって介護をしていたのに、母のショックは大きかったのではないかと思います。

そのうちに、意識がはっきりしない状態になってしまいました。声をかけると認識はするけれど、しゃべれない状態でした。危ない状態であると言われたのが、12月1日くらいでした。

母は「できれば最後に息を引き取るときはそばにいたい」という強い思いがあったので、寝ずにずっと付き添っていました。でも、私たちも見るに見かねて母を休ませるようにしました。結局、私は夜中まで仕事をしながら妹と交代で祖母の看護をして、丸々2週間不眠不休の生活を送りました。

後悔もある、しかし恩返しはできた

写真:2幼少時の黒澤さんと祖母の「知さん」
幼少時の黒澤さんと祖母の「知さん」

12月5日の明け方に呼吸が危ない状態になって、先生からは覚悟するようにと言われました。午後4時くらいに妹から連絡があり、もう半分以上息をしていないということで、至急先生に往診してもらいました。それから30分くらいがんばっていましたが、息を引き取る瞬間、みんなの顔を見て、口をパクパクしていました。後から、みんなで「あれは『ありがとう』って言っていたんだね。よかったね」と話していました。

最後のほうは、私が面倒をみると言っていたのに妹と母にまかせっきりで、それが少し心残りです。「おばあちゃん、ごめんね」と言いながら最後のお別れをしました。祖母は本当はまだやりたいこともたくさんあったでしょうし、もっと長生きさせてあげたかったなと思うのですが、最後に「ありがとう」と言ってくれたのだと思うと、これでよかったのかなという気持ちで見送りました。

この10年間、私は祖母と一緒に生活をしていたので、祖母に育ててもらったといっても過言ではないくらいでした。がんを告知されてからの時間の中で、その恩返しが少しできたかなと自分では思っています。

でも、先生の話では、祖母の場合、もしかすると大腸がんが先で、肺に転移していたのかもしれない、早い経過をたどったのはそのせいかもしれないとのことでした。もしかして、いろいろと無理をさせてしまったのかも、もっと早く気づいてあげられればよかったのかもと思ってしまいました。やっぱり残された者にはそういう後悔が残ってしまいます。

祖母ががんだと告知されてから、亡くなるまでちょうど1年ちょっとでした。本当に怒涛のような1年でした。最期の時間を一緒に過ごせたことは、祖母の面倒をみる環境がとても恵まれていたからこそ、ここまでできたと思い、協力してくれた周りの方々に感謝の気持ちを忘れてはいけないなと思っています。

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