がんが私から奪いさったもの、与えてくれたもの
病気に負けないために大切なことは、自分に負けないこと
2004年の猛暑の夏、私は長い間一緒に暮らしていた大好きな彼に別れを告げられた。いろんなことがあったが、恥ずかしながら? 別れたきっかけになったのはよくある男女間のトラブルで、「カレにホカにスキナヒトがデキタ」なのだ。決して珍しいことじゃない。
ただ、ちょっと人より違っていて、ちょっと人よりつらかったのは、私は“癌”という病魔と闘っている途中のできごとだったということだ。
“癌”という漢字は誰が考えたのかな? とても悲しくなる漢字だ。がんになった人はみな感じることじゃないかと思う。病がたくさんの口を開いて山のようにある……みたいなイメージが湧くじゃないか!
「女じゃなくなっちゃうのかな」
2003年12月7日、私は乳がんを宣告された。
私の予備知識では、がんの告知というと、イメージ的にはものすごく衝撃的でつらく悲しいものように思っていた。でも不思議なことに、そのとき私はあまりつらかったという記憶はない。もちろん、ただの乳腺の炎症ぐらいに思っていた私は、先生の「がんです」という言葉には、ただただびっくりで、まるで他人事のように思えた。死ぬのかな? と思うよりは、おっぱい取るのかな? 取っちゃたら彼はなんて思うかな? もう女じゃなくなっちゃうのかな? などと訳の分かんないことを考えて、ボーっとしてしまっていた。先生にこれからの治療のこととか説明されていたような気もするが、何にも聞こえていなかった。
先生には、そんな私が泣くのを我慢しているように見えたのかな? 「今は気丈に振舞われていらっしゃるとは思います。今日は治療についてはあまりご説明しませんが、がんばりましょう」みたいなことを言われたとき、いきなり現実に戻った感じで急に悲しくなった。堰切ったように涙が出た。やばい、泣いたらかっこ悪い、などと思い、泣くのを我慢しようとするのだが、無駄な抵抗で、最後はしゃくりあげて泣いていたことを憶えている。
私が検査を受けたクリニックは、先生方はじめ看護師さん、スタッフの方々も、不明な点、質問があればいやな顔ひとつせず答えてくれたり、カルテや検査結果報告書なども必ず患者の分までコピーなどして用意してくれる、とても明るいクリニックだ。セカンドオピニオンという、別の医師、病院の診察を受けるということも推奨しているクリニックだった。
もちろん、セカンドオピニオンも受けたし、インターネットで調べたり、書籍も読んだ。というより、調べてもらったというほうが正しいかな?
私には2つ下の妹がいる。私にとって親友でもある妹は、しっかり者で、病気について調べるとつらくなり、ヘンになりかける私にかわり、熱心に調べてくれた。必要な情報は、彼女がファイルにして私に持ってきてくれたり、口頭で分かりやすく説明してくれた。
ひとくくりにがんといっても、できた部位や発見状況などでまったく違う病気と考えていい。そして、自分の生活環境、考えなども考慮すると、手術の方法や投薬、放射線など、患者の数だけ治療も存在しているということだ。それを教えてくれたのは、妹とこのクリニックの先生方だった。
心配してくれる人がいる心強さ
闘病を支えてくれた妹の智子さん(左)と
告知から年が明けて、2004年1月31日、私は、左胸筋温存乳房切除術を受けた。
左胸が全部なくなった。
今までは、友達とお風呂に入るたびに「きれいな胸だね」とほめられ続けた自慢の胸だった。素直に悲しかった。
でも、そのときは、興奮していたせいなのか、彼や家族が精一杯励まし、私のそばにいてくれたせいなのか、悲しさはあったが、つらさや恐怖はなかった。病人にとって、自分を心配してくれる人がいるということは、何よりも心強い。自分のことのように心配してくれる友達、彼氏、家族、そして信頼できる外科医。私はすべて揃った素晴らしい状態で手術を受けることができたのである。
自分自身を失い、1人きりに
それでも、がんであるという事実は消せない。「5年生存率」という言葉に、恐怖におののいた。手術してからも、「再発」という言葉が頭から離れない。乳がんとわかってから、全身療法としてホルモン療法を受けていたので、生理はなくなり、30代のまだまだ若い私の体は悲鳴を上げていた。更年期障害と同じことが副作用として起こっていたのだ。
「再発」そして「死ぬかもしれない」という不安。そして、女性の象徴である胸が根こそぎなくなり、生理がなくなり、人間として、そして何より女性としての自分がなくなり、私は“ポンコツ”なんだと思うようになった。
この頃が、精神的にかなり参っていた時期だったのかもしれない。
がんばってきた仕事も、友達付き合いも、何もかもいやになって、何もしない日々が続いた。同じくがんになった人のエッセイなどを読むと、「何で私が……」というフレーズが必ずと言っていいほど目につくが、私も、発病したこの運命を呪った。自然と笑うことがなくなり、何事もネガティブに考えるようになっていた。
自分の運命ばかり呪う毎日の私に、この世で1番大好きで、頼りにしていた彼に別れを告げられた。今では、当時の私を振り返って、「本当の自分」ではなかったと思えるが、そのときは、「何で私がこんなに苦しんでいるときに、こんな病気とがんばって闘っている私を見捨てるのか?」と、優しくされるのが当たり前だと思っていた私は、彼を責めた。ますます彼の心は離れていった。
気がつけば私は1人きりになってしまっていた。
今だからわかるが、当時の私は「最悪」だった。
がんであるという事実はつらい。どこか痛ければ、「転移したかしら?」と不安になり、心配してくれる友達にも、「健康なあなたに私の気持ちなんかわからない」とひねくれ、支えてくれる彼にさえ、「私はがんなんだから」と、どんなことをしても許されると思っているような態度をとっていた。
病気はやはりつらい。いろんな人に支えてもらっても、闘うのは自分1人だという覚悟も必要だ。病気は誰のせいでもないし、どんなに泣いてもわめいても、現実は変わらないのだ。自分自身を完全に失ってしまった私は、人としての魅力を欠いていき、彼が私のわがままにうんざりしていたことを理解できないでいた。
でも「生きていたい」
そんな中、2004年8月、左脇への局所再発という現実が私を襲った。すぐに左脇の腫瘍の摘出を9月末に行ったが、検査の結果、がんの性質が最初のときとまったく変わり、現在のホルモン療法は効果があがっていないことが判明した。主治医に「抗がん剤」の投与の必要性を聞かされた私には、もう選択の余地はなかった。10月の末から抗がん剤による治療が始まった。
私がそれまで治療を選ぶとき、第1に考えてきたことはまず「命」、その次は女として美しくあること。そして何より「子供を産む」ということを優先して治療法を決めてきた。抗がん剤を使えば、髪の毛はもちろん、眉毛、まつ毛など全身の脱毛は避けられないし、ほとんどの人はその強い副作用で生理までもなくなってしまうという。もちろん命のために、がんを攻撃して殺すという恩恵を受けるための投与だが、私にとって抗がん剤は絶望そのものだった。
それでも人間は「生きていたい」と思うのだ。10月末から3週間に1度、合計8回に渡り点滴で受けた。髪の毛、眉毛、まつ毛、全身の毛がなくなり、爪は黒っぽく汚くなり、顔色はいつ見ても最悪だった。
髪の毛は、最初の投与から2週間で一気にごっそり抜けた。初めからわかっていたことでも、女として、髪の毛がなくなるのは何とも言えない悲しみがあり、鏡を見るのが怖かった。
気持ち悪さや体中の痛みより、外見が変わっていくことのほうがつらい。ますます内気になっていってしまった。
ウイッグなしでは外に出かけられない。そんな状態が続くようになって、「このままじゃいけない」と思うようになった。
こんなときだからおしゃれをしよう。いろんな形のウイッグを購入して、今までしたことのない髪型にもチャレンジした。自分に似合うウイッグが見つかると、とても気持ちが晴れやかになった。病気を知らない人に、「カツラだとバレないかな?」と不安に思ったりもしたが、案外わからないものらしく、「髪形変えたんだね、似合うよ」と言われたりした。
がんが教えてくれたこと
治療が一段落し、少し気持ちが落ち着いてきた頃から、がんのこと、自分のこと、周りの人たちのこと、今までの闘病を振り返って、改めて考えるようになった。
病気に負けないために大切なことは、自分に負けないことだ。病気のせいにして甘えないことだ。私は病気になってちょっと不幸だったけど、がんだからといって、人間として変わる訳じゃないし、女性としてすべてを失った訳じゃない。
髪の毛もだいぶ生え揃ってきて、体のだるさも抜けてきた今は、まだまだ再発などの不安は吹っ切れないのも正直な気持ちだが、発病前と何も変わることのない私と向き合えるようになった。治療中は内にこもるばかりだったが、もう1度「本当の自分」を取り戻すことができた。
失ったものはたくさんあるが、それまではそんなに意識してこなかった「生きている」という実感、妹や両親、友達、そして今は一緒ではないが闘病を支えてくれた彼へ「感謝しています」と言える素直な気持ちを手に入れることができた。
がんは私にいろんな試練を与え、いろんなことを考えさせ、心から「自分が好き」と言わせてくれた。これからまだまだ試練は残っているが、「愛する自分」とともに闘っていこうと思っている。
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