多くのサポートに恵まれ、在宅で家族と過ごす
最後の最後まで笑って過ごしたい

文:松崎典子
発行:2005年12月
更新:2013年4月

  

2004年の3月。普段は自分の胸なんか触らないのに、そのときは右胸がかゆくて、触ったら「あれ?」って思ったんです。それぐらい大きいしこりでした。実は、2003年9月に市の乳がん検診(触診のみ)を受けていましたので、今から考えると進行が早いタイプのがんだったのかもしれません。

すぐに近所の総合病院で検査を受けて、そのとき先生が看護師さんに陰で「ほぼクロ」と言っているのが聞こえました。

結果が出るまでの1週間に、書店でたまたま南雲先生の『乳ガン110番』を見つけました。それを手に取ったのが私のその後の運命を決めたのかもしれないと思うほどです。南雲先生を始め、多くの信頼できるスタッフと出会い、納得のいく治療を受けられたこと、在宅ケアの希望が叶ったことも、思い起こせばこの本とめぐり合ったことからすべてが始まっていました。

乳がんの手術、さらに抗がん剤治療へ

写真:2人の息子たちとスキーに
2人の息子たちとスキーに

もしもしこりが乳がんだった場合、手術をするとしても入院期間が短いほうが良いと考えていました。私は小学校の給食関係の仕事をしていて、有給が残り少なかったという事情もありました。4月8日の受診日、すぐに「乳がんです」と言われ、手術の提示もありましたが、その病院ではセンチネルリンパ節生検をやっていないし、入院は2週間、しかも手術は1カ月後とのことでした。そのため、セカンドオピニオンとしてナグモクリニックを受診し、もう1度正確な検査をすることになりました。それが4月15日でした。

手術をしても1泊入院で早く職場に復帰でき、センチネルリンパ節生検もできるということだったので、ナグモクリニックで4月29日に手術と決めました。連休中で、ベストの日程だったのですが、病理検査でリンパ腫かもしれないと言われたこともあり、結局5月13日に手術しました。術後は傷が全然痛くなくて、不思議なくらいでした。手術から6日後に職場に復帰して、仲間に助けられながらですが普通に仕事もできました。

その後、抗がん剤の話になって、岩瀬先生の外来を受診しました。腫瘍も大きかったですし、センチネルリンパ節生検では転移はゼロだったけれど、リンパ節も残しているので、抗がん剤治療を行ったほうが良いと言われました。

7月10日にAC-T療法の1回目がスタートしました。もちろん、髪の毛が抜けるのは嫌だったのですが、かつらを用意して備えました。9月に最後のACがあって、10月4日に最初のT(タキソール)をうった後、体中の関節が痛くなって家事が何もできなくなってしまい、1回だけで中止、その後痛みが抜けるまでに2カ月くらいかかりました。

センチネルリンパ節生検=リンパ液が最初に流れ着くリンパ節(センチネルリンパ節)を調べ、転移の有無を判定する方法。ここに転移がなければ、その先にも転移はないと判断される
AC-T療法=アドリアシン(一般名ドキソルビシン)、エンドキサン(一般名シクロフォスファミド)の2剤に、タキソール(一般名パクリタキセル)を加えた治療法

肺、肝臓への転移が発覚

痛みが落ち着いてきたので、12月17日にPET検査を受けました。その結果は年明けの2005年1月中旬に聞きに行きました。実は、その前、12月初旬に右胸の横の辺りのリンパ節の腫れに気がついていました。PETの結果を見たらやはり腫れがくっきり写っていて、再手術で取ることになりました。

2月5日に撮ったCTから、今度は鎖骨にも腫れがあり、それは遠隔転移を意味しているとのことで、病理検査のためにまた手術をしました。2月2日にはゼローダ(一般名カペシタビン)の内服を始めましたが、5日のCTの検査から、肺に転移していることが告げられました。そして5月のCTのときには肝臓に転移していることがわかり、「とうとうきたか」と思いました。そのため、ゼローダにエンドキサン(一般名シクロホスファミド)が追加されました。

6月にもCTを撮りましたが、薬の効果もなく、今度は以前によく使われていたというフルツロン(一般名ドキシフルリジン)とヒスロンH(一般名メドロキシプロゲステロン)に変えましたが、ヒスロンHを内服したせいですごく体重が増加してしまったので中止してもらい、現在はフルツロンだけを内服しています。私の夫は「もっといろいろ薬を変えてもらったら?」と言うのですが、「太るなど、苦しみつつ日々を過ごすよりは、薬を飲まないという選択肢もあるんだよ。それで解放されて小さくなる人もいるんだよ。とりあえず今はこれで、在宅という新しい体制でやることにしたい」という話をしました。

夫にはできれば在宅で治療したいという話は前にもしていたのですが、18歳と16歳の息子2人には夫の反対もあってなかなか病気の事実さえ言えませんでした。長男がちょうど受験期だったこともあったのですが、在宅治療を支援してもらうためのチーム作りをするにあたって、いろいろな人が家に来ることになるし、子供たちに病気のことを話すには適当な時期だろうということになりました。

その前の6月から7月にかけて、夫婦でがん関係のシンポジウムに参加する機会がありました。イデアフォー、キャンサーネットジャパン、緩和医療学会などが主催の会で、これから在宅で過ごすためには早く準備をすることが大切であるということがよくわかりました。

私の家は男手しかないし、最後まで固執しようとは思わないけれど、できれば最後まで自宅でできることはしたいということを伝えました。何よりも、子供たちとできる限り一緒に過ごしたいという思いが、在宅を希望した一番の理由です。

夫もできる限りのサポートをするから、と言ってくれました。夫には「子どもには私が言うから。私が元気なうちに、とにかく笑って言うから」と、自分でタイミングを計って子供たちに伝えることを決めました。

子供たちにがんを告白

写真:在宅での治療を支えてくれる家族の存在
在宅での治療を支えてくれる家族の存在

この夏休みはほとんど一緒にいましたが、家族旅行から帰ってきて、ある日「今日言おう」と思いました。なぜその日に決心したかというのは、自分でもよくわからないのですが、とにかくその日の朝決めました。夫が寝て、子どもたちも寝ると言ったときに「悪いけど、ちょっと待って」と2人に座ってもらって、「ちょっと話しておきたいことがあるんだ」って。「元々乳がんだったんだよ。気づいていると思うけど、右胸はほとんどとっていて、それが思ったより早く再発・転移をして、わかっているだけで肺と肝臓にあるの。ただそんなに大きいものではないので、急に、ここ1、2週間でどうかなるということはないし、先生からも、それが1年後なのか、10年後なのか、数カ月後なのかはわからないという風に言われているんだ。先生からは例えば、僕が1年後に夏を迎える確率とあなたが1年後に夏を迎える確率では僕のほうがちょっと高いと、そういう風に言われたのよ。人の命なんてまったくわからないし、すごく効く薬が偶然発見されちゃうってこともあるし、それは誰にもわからない」という話をしました。

長男は「予想してた。お父さんの態度も変だったし、これは長くないかもしれないなと感じてた」と言っていました。次男は無言でしたが、その後そんなに落ち込んでいる風でもなくて、心配もしてくれて手伝ってもくれるようになりました。息子たちに話をして、気持ちがすごーく楽になりました。

周囲のサポートを得て、在宅治療に移行

私はやっておきたいことがいっぱいあります。家の中のどこかにしまっておいた古いもので、見つけておかなくてはいけないものもあるんですよね。それがなかなか見つからない(笑)。今は具体的にわからないのですが、言っておきたいこと、書いておきたいこともいっぱいあるし、会っておきたい人もたくさんいる。元気なうちに。

在宅治療を希望することについては、まず岩瀬先生に話をしました。その後ナグモクリニックの看護師さんが在宅に関する調整を一緒にやってくれました。その方のつてで、乳がんの患者会「ブーゲンビリア」の内田絵子さんから、立川の井尾クリニックを紹介してもらいました。同時期に私も自分からブーゲンビリアに入会して、内田さんが「会員の方のためには私も張り切って頑張るわ!」と言ってくださり、とてもスムーズに在宅ケアを受けられる環境が整いました。

本来、青梅は井尾クリニックの訪問地域外なのですが、そんなに遠くないからと、訪問を快諾してくださいました。私が初めて相談に行ったのは8月31日で、すぐに咳止めや痛みのコントロールのお薬を調節してくださり、現在はとても快適に過ごせています。友人からは「そんなにのほほんとしていて良いの?」と逆に言われるほどですが、最後の最後まで笑って過ごしていたいという強い思いがあるので、そのことが支えになっているのかもしれません。

この話にはもう1つ驚きの出来事があって、井尾クリニックで在宅を担当している看護師さんが実は、私の中学のときの同級生だったのです! その友人が看護師で訪問看護をやっていることは知っていましたが、まさか井尾クリニックで働いているとは思いませんでした。彼女が私の訪問担当なので、もし私の両親に話すことになっても安心してくれると思います。でも、もしお互いにつらくなったら他の人と交代してもらおうね、ということは今から言っています。いろいろなことがとても上手くいっているので本当によいチーム作りができていると思っています。

私の今一番の夢は「青梅に患者や家族が集えるような会を作りたい!」ということです。今はブーゲンビリアでそのノウハウを学んで具体的にどのようにやって行けばいいかを考えているところです。 せっかくこのような原稿を書く機会を与えていただいたので、青梅近辺にお住まいの方で、病気のことや悩みを話したいけれど誰にも言えないと悩んでいる患者さんまたは家族の方などがいらっしゃいましたら、ぜひご連絡ください! 気軽に話せる「駆け込み寺」のような会を作りたいと思っています。


松崎典子さんは2005年10月16日にご逝去されました。ご冥福をお祈り申し上げます。
松崎さんが計画されていた患者会設立の進行は、現在未定ですが、そのご遺志に賛同された方は「楽患ねっと」までご連絡ください。

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