納得の治療に必要なのは医師との信頼関係
在宅で自分らしく生きる

文:佐藤春輝(写真家)
発行:2005年9月
更新:2013年4月

  

2004年春。何となく風邪が治りにくいと感じていました。が、もともと病院が嫌いだったこともあり、たいしたことはないだろうという思いから、そのまま病院にもいかず、忙しい毎日を過ごしていました。

58歳の私は、建築や鉄・コンクリートを専門とする写真家で、自宅の隣に事務所を置いて仕事をしていました。

しかし、風邪は一向に良くなる気配はありませんでした。今までは暑がりで、冷房なしにはいられなかったにも関わらず、猛暑のなかでも冷房に当たると具合が悪くなるという状態が続きました。

秋の終わりごろになると、とうとう声が擦れてきたため、病院嫌いの私も仕方なく近所の病院を受診しました。

病院ではいろいろと検査をしましたが、結果は「悪いところはなし」とのこと。昨年撮った肺のレントゲンと、今回のレントゲンを比較しながら説明してもらっていたところ、たまたま首の辺りに何か変な物が見えたのです。

私は普段から画像を扱う仕事をしていましたので、肺のレントゲンを撮ったときにたまたま写っていた首の右側に、前年度と比較して違う部分があることに気付いたのでした。そこで慌てて総合病院を受診することになり、その日のうちに、「原発は不明だが、首の部分に悪性だと思われる腫瘍がある」との告知を受けました。

余命は2~3カ月と言われ、10日間ほど検査にかかり、その間、みるみる体力が落ちていくのを感じました。また、昔から病院が嫌いだったこともありましたが、入院してみて実感した「教科書通りの治療」に嫌気がさし、今後、入院・手術はしないと決めました。

医師への不信感から転院を決意

写真:海で
写真:マンタ
大好きな海で、水中を泳ぐマンタを撮影

結局、12月に入ってすぐに、原発がどこにあるのかは分からないまま、8年前友人に紹介された血管内治療を専門としているクリニックへ転院しました。血管内治療を開始してからは、徐々に体調が回復していくのを感じました。

治療をしていく中で私が一番こだわっていたことは、「今任されている仕事を最後までやり通したい」ということでした。病院では余命は2~3カ月、つまり年内だと言われていましたが、治療を受けて具合の良くなっていた私は、「あと2年は仕事をしたい」と思うようになっていました。

実際、今年の3月までは普通に仕事をすることができていました。しかし、4月に入って体重が減り始め、体調は悪化。少しずつ、右の首に痛みを感じるようになり、中旬に入ると、しびれるようにもなってきました。また、しびれは首から手・足と、体の右半分に広がっていき、とうとうカメラを持つことができなくなりました。そこでついにカメラマンは廃業しました。

でも、だからといって写真への気持ちが無くなった訳ではありません。今、一番撮りたいのは海の中の写真です。専門にしていたのは色気のないものですが、これまで並行して海の中の写真も撮り続けてきました。ダイビング暦は20年以上。やっぱり自分は海が好きなんだと改めて思います。

在宅での治療を選ぶ

5月末、血管内治療が終了しました。右半身の痛みは、ますますひどくなり、どうにも我慢できないものとなっていきました。主治医は、今の病院ではこれ以上の鎮痛は出来ないから、と言って、現在の主治医である野崎医師を紹介してくれました。「1回だけ、野崎医師のクリニックへ頑張って行ってみて下さい。そうすれば、どんな痛みでも往診で取り除いてくれるから」。そう言われて、6月4日、どうにもならなくなった体を抱えて、クリニックを訪れました。鎮痛治療は、外来のベッドの上で薬を調整しながら行い、丸半日かかりました。それでも、痛くて体を引きずるようにして来たときと較べると格段に良くなり、なんとか自分の足で歩いて帰れるようになりました。

実は、痛みが治まらなくなったころから、緩和ケア病棟への入院なども考えて、ある程度の用意はしていました。しかし、この日の治療によって痛みが軽くなり、今後、医師が往診で「最期まで診る」と約束してくれたので、もう入院はせず、このまま自宅で往診を受けることに決めました。

今はまだ痛いところもあるけれど、残っている仕事を仕上げたり、食事に行ったり、普通どおりの生活を送っています。往診してもらって痛みを止めることができて、その上自宅にいることができる。これが本当の緩和ケアだと思います。こんなに良い方法があるなら、わざわざ入院することはない。そう思っています。

6月もあと1週間で終わりますが、何とか6月一杯で残っていた仕事も終わりそうです。家族には悪いけれど、私はやっぱり仕事人間で、今一番やりたいことは仕事です。自分の一生の仕事なんて格好の良いものではなく、頼まれ仕事ですが、任せられたものは最後まできちんと終わらせたいと思います。その後は、とくにやりたいことは無くなってしまいますが、それまで生きていられるかも分かりません。私はリアリストなので、本気でそう思っています。

最期まで「普通に」暮らしたい

写真:すみなれた自宅で家族とともに過ごす
すみなれた自宅で家族とともに過ごす。
在宅治療では、家族の協力が不可欠だ

ただ、介護ベッドを入れるのは嫌なのです。痛いので起き上がるのがつらいのですが、酸素や介護ベッドを入れることは、悪くなっていく一方の病人という気分になります。最期まで普通に自宅で暮らしたいのですから、できるだけそういった大げさな物は入れたくありません。

また、私は外食が嫌いで、女房が作った物でなくてはだめなんです。以前別の件で入院したときも、病院へ食べ物を持ってきてもらっていました。いろいろ自宅で療養することは大変かもしれませんが、毎日食事を作って病院へ見舞いに来ることを考えたら、逆に通わなくてすむ分、女房も楽かもしれません。

自宅で治療することにも不安はありません。ときには点滴に空気が入っていると言って大騒ぎすることもありますが、何とか対応することができますし、女房は「人事だから気にならない、大丈夫よ」なんてすましています。

家にいれば、友人がたくさんお見舞いにも来てくれます。小学校のときの友人には「僕、明日死ぬから来て!」と連絡したらすぐ飛んできて、朝まで一緒に飲んでいました。お見舞いというと皆で酒盛りになってしまって、まっすぐ歩けないほどでした。ついに女房から友人に、「治るまでお見舞いに来ないで!」なんて言われてしまいました。昨日は、隣の仕事場のトイレ掃除が忘れられていたので、自分でやりました。自分でできることはしたいですね。

信頼できる医師がいれば、治療に不安はない

こうして家で療養できる私は、本当に幸せだと思います。人によっては、自宅のリビングにベッドを入れるスペースがない人もいるでしょう。家族がいない人もいるでしょう。今の環境が整っているから、自宅療養ができるのだと思います。また、何よりも大切なことは、信頼できる医師にめぐり会ったことです。

大きな病院の医師は怖かった。声が擦れて出ないと言っても「声は出ているじゃないか!」と怒鳴られたり、「あんたはうちから離れたら死んじゃうよ」と言い放たれたり。患者の身になって考えてくれる医師はいませんでした。

大病院の医師は、1人の患者に時間をかけられず、組織の中で流されている人が多い。それでは医師ではなく、ただの病気を治す、治療をするロボットのような物でしかない。

血の通った人の痛みが分かる人でなければ、教科書通りの治療しかしてくれない。患者は、1人ひとり、違うことを許容してくれないのです。看護師も医師と同じで、上から物を言うんですね。

血管内治療を受けたクリニックの医師と今の主治医が大病院の医師と違うところは、患者の立場に立って対応してくれ、家族のことも考えてくれるところです。必要があれば、医師が直接家族に電話をしてきてくれます。家族のことも心に留めて下さる気持ちは、とても嬉しいものでした。そういった意味で、両医師とも私にとってはとても信頼できるのです。

教科書どおりの治療しかしないのではなく、私自身をよく見て、私に合った治療法を次々と提示してくれることは、希望につながります。選択肢が広がることは、本当に大切なことなのです。そのためには、私がどのような人間かを知らなくてはいけません。

現在の主治医は、初めての往診のときに、取り留めのない話をして帰りました。多分、そのときに私の性格をつかんでいたのだと思います。

大きな病院では、患者さんと治療以外の話をすることは無駄のように言われますが、今の主治医が、緊張感を与えないように接してくれて、その上でどのような治療が必要かを考えて下さるのは、本当に素晴らしいことだと思います。

治療は医師が決めるものではなく、患者が決めるもの。その姿勢を貫きながら、必要な情報を提供し、最期まで共に歩もうとして下さる医師を私は信頼しています。

信頼できる医師がいれば、自宅でもどこでも治療に不安はありません。医師との信頼関係をしっかり築くこと、それが、どこで療養するにしても一番大切なことなのだと思います。


佐藤さんは、2005年7月19日にご逝去されました。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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