乳がんは私に小さな自信をくれた
夢を追いかける

文:泉あい
発行:2005年1月
更新:2013年4月

  

シャワーをあびながら乳房のしこりを発見

私は泉あい。ジャーナリストになりたいという夢へ向かってバクシン中の38歳1カ月です。山口県出身、東京都在住。趣味は競走馬鑑賞。昼間は、派遣スタッフとして働き、夜は、病気のことや大好きな馬のことを書いて、ホームページを更新する毎日です。

乳がんの宣告を受けたのは、3年前の2001年でした。実は、その年は、結婚生活が破綻するという私にとって転機の年でした。主人からのドメスティックバイオレンスに耐えられなくなり、家を飛び出したのが4月。5月にはマンションを借り、6月にパソコンを購入し、インターネットをはじめました。マンションもパソコンも実家の母に頼って手にしたものです。私の両親は、私が小学生のときに離婚したので、母は女手一つで私を音大まで出してくれました。そんな母に申し訳なくて、早く自立して恩返しをしようと夢を見つけた矢先の9月に乳がんを宣告されたのです。

しこりを見つけたのは、シャワーを浴びているときでした。胸が大きな私は、普段から乳がんを警戒していたので、ときおり触診していました。シャワーのときに鏡に映してみたり、ボディシャンプーをつけてすべりやすくして触ってみます。指がひっかかったそのときの何とも言えない不安感ったらありませんでした。得体の知れない圧迫感で胸がもやもやして、一日中しこりの部分を触っていたこともあります。

診察を受けて、エコーとマンモグラフィの結果から医師は、
「90パーセントがんです」
と私に言いました。入院と手術の日程を決めた上で組織を採られ、数日間結果が出るまで待ちました。残りの10パーセントの可能性に賭けて……。

検査結果が出ると、医師は、
「乳がんです」
と、とてもとても事務的に言いました。その瞬間、自分の唇がぷるぷると震えるのがわかり、泣いてしまわないように、ぐっと唇を噛み締めました。医師は、20ミリ以下なので初期のがんであるとか、温存治療のこととかを話してくださったと思うのですが、全く記憶に残っていません。私は、早くここから出たい。早く一人になりたいと、涙をこらえるしかなかったです。

医師の言葉を思い出し、病気と向き合う決心を

病院を出て、駅までの道、まず派遣会社と実家の母へ電話を入れました。二人とも、
「何も心配はしないでいいから、あなたは自分の体のことを考えなさい」

そう言ってくれました。仕事への責任と、お金の心配から開放された私は、病気に集中できるようになりました。本当にありがたかったです。

「自分の体のことを考えなさい」

二人とも同じことを言いました。そう言われても、たった今自分は乳がんであると宣告されたんだという現実を受け入れられないでいました。

私が最もこわかったのは、体にメスを入れるということです。温存治療といったって、私の右の乳房はどうなってしまうのか、女性としてのアイデンティティを欠いてしまうと思い、こわくてなりませんでした。体に傷を持つということは、これからの人生を一人で生きていかなければならないのだろうか。誰からも愛されずに一人ぼっちで生きていくのなんて嫌だ。

そんなことを考えているとき、目の前を若い女性が通りました。スタイルが良くて、ヘアスタイルもファッションも今風で、一見普通の女性です。違うところは、顔の大部分をガーゼで覆われているというところでした。明らかにちょっと顔をすりむいたという感じには見えない。目の周りを大きく覆ったガーゼが、直視するのは申し訳ないという気分にさせました。

それを見たとき、あることを想い出したんです。それは、私が実家の母が営む飲食店を手伝っているときの話です。珍しく、母が体調を壊してしまい、一人で店番をしている夜、お客さんは大学病院の耳鼻科の医師一人でした。いつも寡黙な医師が、私と二人きりということもあって、サービス精神旺盛に話してくれました。

「ぼくは耳鼻科が専門だけど、眼球の奥にがんができたときの手術もすることがあるんだ。眼球を取ると、その部分は陥没してしまう。自分の患者さんでも見ててつらい現状がそこにあるわけですよ。それでもね、それでも、患者さんはもっと生きたいって言うんだよね。本当に強いと思うよ」

医師のその言葉を想い出したとき、私のがんは何なんだ? って思いました。脳や胃、肺にできたがんではないから、簡単な手術だし、手術の後だって傷さえくっつけば元通り働けるだろう。傷だって、服さえ着れば全くわからない。乳がんなんて、単なるできものと同じじゃないか! だったら、医師を信じ、全てを任せて、取り除いてもらおう。

そうやって、私は自分が乳がんであるという現実を受け入れて、病気と向き合うことができました。

私だけではないと知り、自分らしさを取り戻す

やる気満々で入院した私は、がんになんか絶対負けない! 私の人生をがんに台無しにされるなんて絶対に嫌だ! と、とにかく前向きに突き進む勢いでした。でも、その決意は、手術前夜に崩れてしまいます。シャワールームで自分の上半身を鏡に映したとき、涙が溢れて止まりませんでした。改めて見ると、きれいな乳房じゃないか。どうしてもっと愛してあげなかったのだろう。自分の大きな乳房が好きではなかったことを後悔しました。今ならまだ間に合う。このままメスを入れずに逃げ出してしまおうか。乳房を見つめたまま葛藤してみても、逃げ出す勇気なんてありません。手術室で、
「あとはメスを入れるだけですよ」
と、言われたときも、やっぱり嫌だ、このまま帰りたい、と思い、涙が頬を伝いました。看護師さんの優しい指がその涙を拭ってくれて、その温かさで私は安心して手術を受けることができたのでした。

手術の後は半年に渡って抗がん剤治療を受けます。抗がん剤治療では、副作用に悩まされる患者さんが多いと思いますが、私の副作用は、心に現れました。吐き気がしてつらい、熱が出てつらい、という症状は、そのまま仕事ができなくてつらいということになります。働けない間は、実家の母から援助を受けていましたから、これ以上仕送りしてもらうわけにはいかないという焦りがあります。それに、世の中には、もっと大変な病気を抱えていても、毎日会社に出て働いている人がいっぱいいます。気分がもやもやしてやる気が出ない。一日中ベッドの上にいて、誰とも連絡を取りたくない。こもっている日々の中で、私は怠け者なのか、それともうつ病にでもなっちゃったのかとへこみました。

抗がん剤治療を半分終えたころの診察で、
「やる気が出ないっていうのは、皆さんおっしゃいますね。抗がん剤の典型的な副作用だと思ってください」
と医師に言われて、すごく気分が楽になりました。私だけではないと思うと気持ちが楽になるものなのですね。

医師の一言のおかげで、ふっきれた私は、5カ月休んだ後、会社に復帰することができました。会社に行きながら抗がん剤治療や放射線治療を受けることは、体にとってはつらいことでしたが、家で休んでいるよりはずっと私らしくいられたと思います。

病気を抱えたシングルのためのサイトを立ち上げる

写真:競走馬と泉あいさん
競走馬観賞が好きという泉あいさん

全ての治療を終えた今、私はとても元気です。乳がんは、私に小さな自信をくれました。自分自身の手でがんを見つけた自信と、がんを克服したという自信です。その自信は、決してあきらめないという私のモットーを支えてくれています。

苦しいのは自分だけではないということを知れば、力が湧いてくるのを知った私は、ホームページ「ハートリンク」を立ち上げました。このページは、病気を抱えているシングルの人のためのものです。

一人でいたら押し潰されそうなとき、なんだかやりきれない出来事に出合ったときや、不安や孤独を抱えているとき、このホームページを見れば何だか元気になれる、一人ぼっちなんかじゃない、そう感じることの出来る温かい場所を作りたいと思っています。

このホームページを活動の拠点にして、今また夢を追いかけはじめました。1度は夢をあきらめなくてはならないのかと思ったときもあったので、夢をみられることの幸せを実感しています。

再発がこわくて、ひとり部屋の隅っこで押し潰されそうになる夜もあります。でも、ホームページと向き合うときだけは、前向きになれるんです。

生きることは、夢をおいかけること。

夢の先をみたくてバクシンしている泉あい38歳1カ月です。

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