がんは「ワクワクすることにしか時間を使わない」と思うきっかけに 若きラガーマンの蹉跌と膀胱がんからの再生

取材・文●髙橋良典
写真提供●忽那健太
発行:2022年12月
更新:2024年2月

  

忽那健太さん 大学ラグビー部コーチ・ラジオパーソナリティ

くつな けんた 1994年愛媛県松山市生まれ。2017年筑波大学卒業後、社会人ラグビーチーム「ホンダヒート」に加入。2021年3月退団後、名古屋学院大学ラグビーコーチに就任。2021年9月膀胱がんと診断。治療終了後、三重県四日市市のCTY-FM局のラジオパーソナリティに。現在、中学教師やスポーツ選手の心をサポートするメンタルコーチの仕事も兼任中

幼い頃からの憧れであった「ラグビー選手」としての夢を叶えた後、思わぬ形で選手人生の幕を下ろすことになった忽那健太さん。第2の人生として選んだ「プロラグビーコーチ」を歩み始めた矢先、膀胱がんと診断される。一時は人生のどん底に味わったが、ラグビーから何回倒されても立ち上がる精神を身につけてきたことで救われた。

入院中、病気が治ったらやりたいと思っていることを書き綴った「未来ノート」に、描いた夢を1つひとつ実現させるべく行動を続けている忽那さんにその思いを訊いた。

大学ラグビー部のコーチ就任が決まった矢先

2019年10月、試合で疾走する忽那さん

5歳から競技を始め、小・中・高・大学・社会人と一貫してラグビー一筋の人生を送ってきた忽那健太さん。学生時代には名門・筑波大学ラグビー部の主将を務める。

2017年卒業後、社会人ラグビーチームの名門「ホンダヒート」に加入した。会社員という立場でもありながら、ラグビー選手として充実した日々を送っていた矢先、選手生活を引退することになった。その後は会社には残り、会社員として働き続けていた。

「もともと社会人でもラグビーを続けたくて、あの会社に入りました。でもラグビーのない生活は刺激がなく、凄く違和感がありました。『俺は車の部品を作るために生まれてきたわけじゃないよな……』と思いながら働いていました。今後の人生をどうしていいのかわからず、汗と油と涙で顔がぐしゃぐしゃになりながら働いていたときもありました。でもやっぱり自分はラグビーと子どもが好き。会社のお世話になった方々に1人ずつ会いに行き、自分の気持ちを打ち明け、思い切って2021年3月末に退社しました」

そして、障害を持っている子どもたちを支援する会社に転職。その傍らラグビーを教えたいという気持ちを胸に、全国の高校や大学に声をかけて回った。

すると愛知の名古屋学院大学がその申し出に興味を示し、「プロのラグビーコーチとして採用したい」という話が舞い込んできた。

その後コーチ就任が決まり、幸せを噛み締めていた就任1カ月目の朝のことだった。

用を足しにトイレに行くと、便器が真っ赤に染まるぐらいの血尿が出た。

「夢を見ているのかと思った。それまでまったく体には異常を感じていなかったので何が起こったのかわかりませんでした」

「これはがんなんですよ」

慌てて近所の泌尿器科に駆け込み、血液検査、尿検査、CT検査を行った。医師から1週間以内に結果が判明したら連絡すると言われた。

不安はあったものの、医師から「その若さで膀胱がんとは考えられない」と言われ、少し安心した。

ところが、翌日、クリニックの医師から「今日病院に来てください。できれば早めにお願いします」と、切迫した声で電話が掛かってきた。

急いでクリニックに駆けつけると、忽那さんに「もしかしたら悪性のがんかもしれない。うちでは手に負えないから近くの総合病院に紹介状を書くので、いますぐ受診してください」

いきなり医師からそう告げられ、気持ちの整理がつかないまま総合病院に向かった。

膀胱にカテーテルを入れ内視鏡で確認すると、膀胱内に腫瘍が見つかった。

医師はこう言った。「これはがんなんですよ」

腫瘍は2~3㎝ぐらいの大きさだった。

医師の言葉を聞きながら「なんでがんになったんだろう」と思う一方で、これは「乗り越えるべき試練なのではないか」とも感じたという。

「僕は、日ごろから『人間に起きることにはすべてに意味がある』と思っています。がんになったことも『神様が自分に変わるきっかけをくれた』と思った。僕は絶対がんでは死なないという漠然とした自信があり、『これを倒すしかない』と思いました」

しかし、帰宅して夜を迎えると不安な気持ちが沸き上がり、涙が出てきた。治す覚悟と本当に治るかわからない不安に押しつぶされそうになっていた。

「未来ノート」に退院後の夢を綴る

総合病院に入院中。マスクをつけて

入院後、尿道から内視鏡を挿入して腫瘍を切除する手術(経尿道的膀胱腫瘍切除術:TURBT)を2時間半かけて行った。

がんは膀胱内に留まっていたため、膀胱がんステージ0aと診断された。

「それを聞いて、『神様からもう1回生きるチャンスを貰った』と嬉しくて泣きました」

1回目の手術後、もう少し削ったほうがいいという医師の言葉と、術後、再び血尿が出てきていたので、2日後に再手術をすることになった。

入院期間は1カ月半近くに及び、コロナ禍で家族や友人たちとの面会も儘ならず、孤独感を感じたと話す。

その間に「僕は何のためにこの世に生まれ、これから何に命の時間を使っていくか」と考え続けていた。そして「このままでは人生終われない。何がなんでも病気を治そう。人生をもっと楽しみ尽くしたい」と心から感じた。

また、治った後に自分がやりたいことを想像し、それを「未来ノート」と題し書きこんでいった。それは自分の気持ちを未来に向けさせたかったからだ。そうすることによって、「がんはあくまで自分のなかでは通過点に過ぎない」と自分を奮い立たせた。

「『未来ノート』には沢山の夢を書きました。ヨーロッパに行っていろんな国の人と会い、ラグビーをもう一度プレーしたい。プロラグビーコーチとして、学生を指導したい。教師になりたい、ラジオのパーソナリティになりたい。いつかヨーロッパの海沿いの綺麗な町に家を建て、日本とヨーロッパの2拠点で生活したい、など。まだ沢山あるけど内緒です(笑)」

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