こどもホスピスの建設に邁進し、いま思うこと 6歳の娘をがんで失って

取材・文●髙橋良典
写真提供●田川尚登
発行:2023年4月
更新:2023年4月

  

田川尚登さん NPO法人「横浜こどもホスピスプロジェクト」代表理事

たがわ ひさと 1957年横浜市生まれ。2003年NPO法人スマイルオブキッズを設立。2008年病児と宿泊滞在施設「リラのいえ」を開設。2014年8月より横浜でこどもホスピス設立活動を開始。2017年NPO法人横浜こどもホスピスプロジェクトを設立し、代表理事に就任。2021年11月横浜こどもホスピス~うみとそらのおうち開設。NPO法人脳腫瘍ネットワーク理事。「病気や障害がある子どもと家族の未来を変えていく」をモットーに小児緩和ケアとこどもホスピスの普及を目指している

田川尚登さんがこどもホスピスの建設に邁進することになったのは、25年前次女のはるかちゃんをがん診断からわずか5カ月で亡くしたことが大きな動機となっている。はるかは何のために生まれてきたのだろうか、自分は残された時間を本当に楽しく過ごさせてやったのだろうか、自問自答する日々が続いた。そして医療施設だけでなく、親子が楽しく過ごせる時間をもっと多く、とこどもホスピス建設に向けての長い道のりが始まった――。

6歳の娘が突然、余命半年の宣告を受ける

1997年夏、6歳のはるかちゃん

現在、民間の「こどもホスピス」は大阪と横浜の2カ所にしかない。その1つ「横浜こどもホスピスプロジェクト」代表理事の田川尚登さんがこどもホスピスの建設を思い立ったのは、次女のはるかちゃんを6歳で亡くしたことが大きな動機だった。

25年前の1997年の初夏に遡る。当時、はるかちゃんは幼稚園の年長組だった。

いつも歩いて幼稚園まで通園していたが、ある日、担任の先生から「通園の途中で、転んだりすることが多くなりました」という指摘を受けた。

しかし、家の中では何ら変わらず元気だったので、それほど気には留めていなかった。

ところが、それからしばらくして、朝起きると「頭が痛い」とか「気持ちが悪い」とか訴えるようになった。心配になった田川さんは、近所の小児クリニックに連れて行き診察を受けた。医師からは「風邪ですね」と、風邪薬を処方された。

だが、一向に症状は改善せず、同じ症状が続いたままだった。ただ、幼稚園を休むようなことはなく、帰宅してからもさほどの変化は見られなかったが、「頭が痛い」とか「気持ちが悪い」などの症状は改善せず、別の小児クリニックを受診することにした。

しかし、そのクリニックでも同じように風邪薬を処方されただけだった。

最初のクリニックを受診して2カ月くらい経った週末、はるかちゃんと近所の公園で遊んでいたときのことだった。はるかちゃんの右手に力が入っていないこと、足を引きずるようにして歩いていることに気づいた。

「これは風邪なんかじゃなく、何か別の病気かもしれない」と、川崎市にある関東労災病院を受診する。そこでMRIの検査を受けた結果、脳幹に腫瘍があることが判明した。

医師からは「脳幹グリオーマで、治療方法がなく余命は半年」と告げられ、あまりのことに田川さんは大きな衝撃を受けた。

「余命は半年だと告げられても、子どもの様子をみていて、半年後に亡くなるなんてとても信じられませんでした」

当時の治療法としては、入院して放射線治療を受けるしか手立てはなかった。

しかし、関東労災病院では小児の入院施設はなく、医師から東大病院と神奈川県立こども医療センターを紹介された。当時、印刷会社の役員だった田川さんは横浜市内の学校関係を営業していたこともあり、横浜市にある神奈川県立こども医療センターに入院させることに決めた。9月初旬のことだった。

はるかちゃんの体調の良いときには自宅に戻るといった生活が始まった。

「もう一度、あの海に行きたい」

治療法がないと言われ、「では、子どもとどう向き合って過ごせばいいのか」悩んだ田川さんは主治医に尋ねた。すると「子どもにとっての楽しい時間を一緒に過ごすしかない」という答えが返ってきた。

入院する前の夏休みに友人の家族と千葉の鴨川の海に行き、そこで楽しい時間を過ごしたことがあった。はるかちゃんは余程楽しかったのか、「もう一度、あの海に行きたい」と言ってきたのだ。

右半身の麻痺は変わらずあり、顔がパンパンに腫れていたが、1月末に家族一緒に1泊旅行に行くことにした。

「はるかはそんな状態にもかかわらず、みんなをエスコートするようにフロントに連れていってくれたりして、元気に振舞っていました」

海を見たり、お花畑に行ったり楽しい時間を過ごし帰宅した。

「その日の夜『頭が痛い』と訴えてきたので、『病院に行こうか』と訊くと、『明日の朝、連れて行ってほしい』と言いました。翌日、病院に連れて行き、そこで痛み止めを処方され、そのまま入院となりました」

面会時間が終わり、自宅に戻った田川さんに主治医から「巡回していて、呼吸が止まっていることに気がつき、人工呼吸器を付けて命は取り留めました」との連絡が入った。

1998年2月1日のことだった。その15日後、田川さんは人工呼吸器を外すことを決断、はるかちゃんは6歳で天国に旅立って行った。脳幹グリオーマと診断されてわずか5カ月後のことだった。

1998年1月、はるかちゃんの希望で鴨川へ家族旅行

はるかちゃんとのファミリー写真

田川さんは、幼くして亡くなったはるかちゃんが、何のために生まれてきたのか、の意味をしきりに考えるようになっていった。

そのとき気づいたのは、小児の医療環境が治療一辺倒になっているということだった。

「どんなに重い病気で、短い余命を告げられていたとしても、子どもはその短い命なら、その命のなかで成長、発達を続けているのです。しかし、医療のなかに入れられていると制約を受けてやりたいことができないでいる。ですから娘を見ていて、入院していても子どもらしい時間は必要だと思いました。はるかは右手が動かなくなっても、左手で文字を書く練習をして1週間で書けるようになりました。また左手で楽器を弾いて楽しんだり、ハムスターを飼って餌やりをしたり、とやれることはたくさんあるのです。

ですから小児の医療環境をもう少し改善できれば、私の娘のような子どもたちも生きているという時間が多ければ多いほど、たとえ亡くなったとしても、その遺族が立ち直る時期が多少なりとも早くなるのではないか、と思うようになりました。私の場合も本当に娘と一緒に楽しい時間が過ごせたのかを自問自答して、立ち直るのに4年半の歳月が必要でした」

子どもたちのために何かできることはないか

「呼吸器を外す決断をするにあたって、主治医だけではなく麻酔科医や看護師や病院の職員たちがいろいろ説明をしてくれました。その結果、呼吸器を外す決断をするのに間違いはないと思えるようになりました。それは皆さんの寄り添いがあったからだと思い、お世話になった病院に、入院している子どもたちのためにできることはないか、という考え方に至りました。そこで大学や高校時代の友人たちを巻き込んで小児医療の改善が何かできないか、と2003年8月に『スマイルオブキッズ』というNPO法人を立ち上げました」

「はるかの葬儀の際にいただいた香典を子どもたちのために使えないかと、はるかが入院していたこども医療センターに相談に行きました。すると天気のいい日に外で昼食が摂れるようなテーブルが欲しいと言われ、寄贈したのが活動のスタートでした」

そして、田川さんの友人にピアニストがいたこともあり、院内コンサートを開いたりしていた。

「こども医療センターは、交通の便があまりよくない場所にあり、遠方から家族で治療に来られたときにホテルで宿泊するのもお金もかかるので、病院のロビーで寝泊まりしている親をみて、宿泊滞在施設が必要だと思うようになりました」

そこで滞在施設建設の資金集めのため、「友人のピアニストに頼みこみ、年1回チャリティーコンサートを開いたりして、3年くらい経った頃3,500万円ほどが集まりました。また、こども医療センターのOBで小児科医の小宮弘毅さんから5,000万円の寄付があり、建設予定地を神奈川県から無償で借りる流れができました」

2008年6月1日、神奈川県立こども医療センターに近くに、家族向けの滞在施設「リラのいえ」をオープンさせた。

家族向け滞在施設「リラのいえ」

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