いつかやろうと思っていることは、どんどんやることにしました 乳がん治療中に感じた情報収集の難しさ。編集者として患者さんのための実用書を制作 編集者・下中美都さん

取材・文:吉田燿子
発行:2012年10月
更新:2018年10月

  
下中美都さん

しもなか みと
1956年2月4日東京生まれ。慶應義塾大学文学部(フランス文学)卒業後、文化出版局に入社し、雑誌『ミセス』や『ハイファッション』の編集を経験。1995年平凡社に入社し、2003年取締役編集局長に就任。2011年より取締役営業担当。

編集者として料理本や雑誌、歳時記の編集に携わってきた下中美都さん。乳がんを経験してからは、夢だった幸田文選集を制作。また自身のがん体験を活かして、患者さんのためになる本を制作した。がん経験は仕事の原動力となっただけでなく、生き方を変える大きな転機となった。

患者さんの助けになる本を作ろうと決意

岩波書店や筑摩書房と並ぶ学術・教養系の総合出版社として、再来年で創業100年を迎える平凡社。『東洋文庫』や『別冊太陽』などのシリーズで知られ、名著や良書を次々に出版。出版不況が叫ばれるなか、知の守り手として大いに気を吐いている。

同社の創業者・下中弥三郎氏の孫娘にあたるのが、現在役員を務める下中美都さん(56歳)だ。下中さんは2007年に乳がんを発症。手術とホルモン治療を行い、今年で術後5年目を迎えた。

巷に氾濫するがん情報に翻弄された体験から、「患者さんの助けになるような本を作ろう」と決意。今年6月、『もしかして乳がん!? あなたの不安に答えます』(吉本賢隆著・平凡社)を出版した。

「既刊の本を見ていると、『乳がんになっても大丈夫。あなたの人生はまだこれからよ』と、心のケアを過剰に前面に出した本が多いように思います。患者さんの気持ちに配慮しながらも、的確な質量の情報が、ウエットでもドライでもなく適度な湿度の語り口で患者さんに伝わる本を作りたかった。乳がんの患者さんやご家族にもぜひ読んでいただきたいと思います」

役員として問題解決に奔走する日々

俳句歳時記

座右の書は平凡社の『俳句歳時記』。下中さんは、日本の生活文化に関する仕事に力を入れている

大学卒業後、文化出版局に入社。16年にわたり、料理本や雑誌『ミセス』『ハイファッション』の編集に携わった。編集の現場では、休日出勤や深夜勤務も珍しくない。持ち前のタフさで全国を飛び回り、精力的に仕事をこなした。

下中さんが平凡社に転職したのは1995年のことだ。出版不況にあえぐ会社の苦境を支えるため、3代目社長の兄に乞われて入社。生活文化・デザイン関係の本の編集に邁進した。座右の書は、平凡社の『俳句歳時記』という。

「この『俳句歳時記』は、俳句の季語を時系列にまとめただけのものではありません。それは、季節感を楽しむ日本人の心をテーマにした、生活文化の百科事典でもあります。古来、日本人は、季節の行事を楽しみ、大切な人と季節感を分かち合うことに幸福を感じてきた。日本人の暮らしのインデックスとして受け継がれてきたのが、"歳時記"なのです」

紀伊国屋書店久留米店にて

紀伊国屋書店・久留米店にて。現在は、平凡社の営業担当取締役として活躍している

03年には取締役編集局長に就任し、経営陣として采配をふるった。だが、経営の現場では、日々、さまざまな問題が発生する。その多くが社内外の人間関係に起因するものだった。

「本の出版には著者のプライドがかかっているので、トラブルは日常茶飯事。感情の行き違いでいわば詰まってしまったドブを浚い、こじれた人間関係を解きほぐすのも役員の仕事

そう考えて、問題解決のために奔走していました」

ときには酒を酌み交わしながら、辞めたいという社員を引き留めることもある。問題解決のための”配管工事”が深夜まで及ぶこともしばしばだった。その過剰な気負いが心身に影響し、知らず知らずのうちに身体を蝕んでいたのかもしれない。

がん情報の海に溺れかけて

下中さんが異変に気づいたのは、07年5月のことだった。会社の乳がん検診を受けたところ、「要精密検査」という結果が出た。近所のクリニックで診てもらったところ、「できるだけ早く、大きな病院で診てもらって下さい」と言われ、近くの総合病院を受診。マンモグラフィとエコーの結果を見て、担当医はこう言った。

「間違いなくがんです。手術をしましょう」

思いもよらない医師の言葉に、下中さんはすっかり動転した。こうしている間にも、がん細胞は血流に乗って、全身に飛散しているのではないか─

そんな恐怖感にとらわれた。

折しも、担当していた本の制作が佳境に入っていた頃。入出稿が大詰めを迎える前に手術をすませなければ、周囲に迷惑をかけてしまう。そこで、仕事の算段をすませて1週間後の入院を予約。それからが、すったもんだの始まりだった。

告知後、下中さんが友人の乳がん経験者に相談すると、瞬く間に"乳がんネットワーク"がつながり、情報が山のように寄せられた。乳がんの最新治療から代替療法、病院選びや医師選びにまで及んだ。

とくに親身に考えてくれたのが、半年前に乳がんの手術を受けたばかりの義妹だった。義妹によれば、くだんの担当医は「センチネルリンパ節生検を行わない」点に問題があるという。当時、センチネルリンパ節生検はまだ始まったばかりで、それほど普及してはいなかったのだ。

「センチネルリンパ節生検で転移がないとわかれば、手術のときにリンパ節郭清をしなくてすむ。それによって予後が全く違ってくるのだから、他の医師を探したほうがいいよ」

とはいうものの、入院は1週間後に迫っている。下中さんはどうしてよいかわからず、パニックに陥った。決めかねていると、義妹は「どうして止めないの」と迫ってくる。今思えばまさに救いのアドバイスだったが、断る勇気ともう1度セッティングする気力がなかった。困り果てて相談した夫の口から出てきたのが、国際医療福祉大学付属三田病院の吉本賢隆医師の評判だった。

そうこうするうちに入院当日を迎え、下中さんは入院の準備を整えると、病院に向かった。

「先生、センチネルリンパ節生検を、やっていただけますか」

「センチネルリンパ節生検のデータはまだ不十分で、100%の精度は保証できない。ですから、私はすべての患者さんのリンパ節を切除します」

「それでは申し訳ないのですが、手術は考えさせてください」

入院を断って帰宅し、あれこれ考えた末、吉本医師の元で手術を受けることにした。告知から入院までの4週間、乳がん情報の海に溺れて、下中さんはヘトヘトになっていた。

吉本医師の執刀で乳房温存手術を実施

後に、下中さんが乳がんの本を作ろうと思い立ったのは、このときの体験がきっかけだ。

「乳がんって情報が多すぎるんです。ホルモン受容体やHER2が陽性か陰性か、ルミナルAかB()か、全摘か温存か、再建するのかしないのか─

乳がんにはさまざまなタイプがあり、それに応じて治療法も違う。でも、情報は多ければいいというものではない。情報が多すぎると、どれを選択すべきかわからなくなり、かえって混乱してしまうのです」

あのとき、大量の情報のなかから、当座の選択に必要なものだけを整理した本があれば、どんなに助かっただろう─

その思いは、下中さんのなかで仄かな火種となる。

主治医の吉本医師は、癌研究会付属病院(当時)で乳腺外科副部長を務めた後、国際医療福祉大学付属三田病院の乳腺センター長に就任した乳腺専門医、現在はよしもとブレストクリニック院長である。

「吉本先生は、温厚で淡々とした、感じのよい先生でした。患者1人ひとりにきちんと向き合う包容力があって、『この先生に決めた!』という感じでした」

7月10日に入院し、翌日、右胸の乳房温存手術を受けた。

病理検査の結果は、直径1.7㎝の浸潤がん。幸いリンパ節転移はなく、ステージ1と診断された。傷口は7㎝ほど残ったが、吉本医師が、胸の肉を寄せて欠損部分をカバーする手術をしてくれたため、仕上がりは思いのほかきれいだった。

ルミナルA=ホルモン感受性陽性、HER2陰性
ルミナルB=ホルモン感受性陽性、HER2陽性


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