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元・笑点の名司会者が、がんを抱えながら大事に育てたもの 落語一途、人情を残して星になった──。5代目三遊亭圓楽さん(落語家)享年76
(落語家)
享年76
「星の王子様」の愛称で親しまれた人気落語家・5代目三遊亭圓楽さん。腎臓病、がん、そして転移と、度重なる病のなか、落語界に生きる者に託した思いとは──。
圓楽一門の若手落語家、三遊亭王楽さんには、実父の好楽さんをはじめとする兄弟子たちがうらやむ宝物がある。10年前、まだ入門間もないころに師匠から直々に教えられた10席の演目の録音テープである。
王楽さんの宝物
「入門して3日目に『二十四孝』という親孝行にまつわる長い滑稽噺を聞かせてくれた。私たち落語家は兄弟子たちに稽古をつけてもらったり、他の一門に出稽古して噺を覚えます。師匠から直接、教えられることはほとんどありません。それなのに師匠が差し向かいで噺を聞かせてくれた。ありがたい話です。このテープは私にとっては何にも代えがたい師匠の形見です」
その師匠というのは、往時には落語界の四天王と称され、テレビ番組「笑点」の司会者として誰もに親しまれた5代目三遊亭圓楽さんである。王楽さんの入門時、圓楽さんはすでに老境にさしかかり、腎臓を病んで人工透析を続けており、王楽さんは最後の直弟子だった。そのことを考えると、圓楽さんには王楽さんの将来に期待するものがあったに違いない。
40年の長きにわたって「笑点」で共演を続けた同じ落語家の盟友、桂歌丸さんは圓楽さんについてこう語る。
「世間ではキザな噺家と思われていたかもしれないけれど、それは自分を売り、落語界を発展させるためのポーズで、実際は勉強熱心な芸の虫だった。噺家のなかであれほど本を読んでいた人もいないでしょう。まだ落語史での位置づけはできないが、名人の1人であったことは間違いない。何よりいつも落語界全体のことを考えていたスケールの大きな人物でした」
そうして09年10月、肺に転移した胃がんの再発により、圓楽さんは帰らぬ人となる。それは王楽さんが真打に昇進した4週間後のことだった。
何が何でも30歳までに真打ちに
圓楽さんの落語家としての人生は決して平坦なものではなかった。
東京浅草の寺に生まれた圓楽さんが、浅草の寄席のにぎわいに惹かれて6代目三遊亭圓生さんに弟子入りしたのは昭和30年、圓楽さん23歳のときである。その際に圓生さんに「50年は飯が食えない」と脅かされ、「30歳までに真打になります」と答えて圓生さんを驚かせたエピソードが残っている。
実際その後、圓楽さんはわずか7年で真打に昇進する。もっとも、そのころの圓楽さんは、後の活躍ぶりからは想像もできない地味な存在だった。
「圓生師匠に似て人情噺のうまい落語家だった。しかしアドリブのきかない不器用な人でもありましたねえ」
と、いうのは圓楽さんの少し前に落語の世界に入っていた桂歌丸さんである。
その圓楽さんの生き方を180度変えたのがテレビとの出合いである。終生のライバルとなる立川談志さん、歌丸さんらと出演した日本テレビ系列の「金曜夜席」、さらにその番組を発展させた「笑点」を通して、圓楽さんは見事に方向を転換し、「湯上りの顔」「星の王子様」をキャッチフレーズにお茶の間の人気を集める。
この「笑点」の大喜利は後に圓楽さんのライフワークとなる。
もっとも、こうしたテレビでの活躍は、低迷する落語人気を盛り上げるための圓楽さん一流の戦略だった。
「誰かがテレビに顔を出して落語ファンをつなぎ止め、多くの人に落語に興味を持ってもらいたい。そのために圓楽さんは派手な自己PRをくり返していたんです」
と、歌丸さんは言う。
だが、圓楽さんは、師匠の圓生さんに「芸が荒れた」と指摘され、一切のテレビ番組の出演を打ち止め、話芸1本で精進していたこともあった。
苦難の中でも貫いた男気
その圓楽さんに訪れた苦境が1978年、真打ち昇進を巡って、圓生さんが落語協会と対立した末の協会脱退だった。圓楽さんはその後、協会から締め出され、圓生さんが他界した後に弟子のために設けた寄席「若竹」も経営不振で閉鎖となり、圓楽さんは借金返済のために全国を講演して回ることになる。
「一途な人で、圓生さんが亡くなった後はいつでも協会に戻れたのにそうしなかった。そのため、落語より講演に追われるときもありました。去年は『戦争と平和』という演題で講演したから、今年は『平和と戦争』でいくよとしゃれていたこともありました」
と、歌丸さんは述懐する。当時の圓楽さんの胸中は無念の思いで満ちていたに違いない。後に出版した自伝『圓楽芸談 しゃれ噺』(百夜書房)には「噺家としていちばんいい50代の時期に講演回りばかりしていたことが悔やまれてならない」と記されている。
もっともそんな無念を晴らすように、圓楽さんはその後、着実に芸に磨きをかけ、88年には文化庁の芸術祭賞を受賞する。
「圓楽さんというと『芝浜』、『浜野矩随』といった人情噺の大家と思われているが、それだけじゃありません。あたしは『野ざらし』『目黒の秋刀魚』のような軽い話も味わいがあって好きだった」
と、歌丸さんは圓楽さんの話芸について語る。
こうして80年代から90年代にかけて、苦境を乗り越えた圓楽さんは、落語家としての絶頂期を迎える。それは苦境を克服した人だからこそ、到達できた高みだったかもしれない。
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