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夫を愛し、家族を愛し、日々の暮らしを愛して思いを詠み続けた 息をするように歌を詠み、歌で愛を貫いた──。河野裕子さん(歌人)享年64
(歌人)
享年64
妻として、母として、1人の女性として、そしてがんを抱えてもなお、そのみずみずしい感性を詠った歌人・河野裕子さん。歌は、死の直前まで詠われ続けた。河野さんの思いは歌に乗り、その死の後も、人々の心の中に生き続けている──。
「一日に何度も笑ふ笑ひ声と笑ひ顔を君に残すため」── 河野裕子
「一日が過ぎれば一日が減つてゆく君との時間 もうすぐ夏至だ」──永田和宏
相聞歌──愛し合う者同士が互いの思いを伝え合う短歌のことだ。その女流歌人は恋人時代から、40年余りの長きにわたって、夫との間で相聞を交わし、病を得た後も自らの思いを歌に託し続けた。
1,000首に及ぶ相聞歌
2人の間で交わされた相聞歌は1,000首近くにも及ぶ。冒頭の歌はそのなかで2008年7月、乳がんの再発が判明した後に、夫への思いを詠んだ歌である。
「面と向かって口にはできないことも、歌に託せば素直に伝え合うことができる。歌にすれば、照れや恥じらいを感じることなく、率直に気持ちを言葉にできるし、微妙な心のひだを表現することもできる。妻とはそうして大切な感情を分かち合いながら、ともに人生を歩み続けてきた。歌があるから、より深く互いに理解し合うこともできたのでしょう」
そう語るのは女流歌人の夫、京都大学名誉教授で自らも歌壇の重鎮でもある永田和宏さんである。その永田さんや、やはり歌人として知られる長男淳さん、長女紅さんに見守られながら、歌人はまるで息をするかのように、死の直前まで詠い続けた。そうして戦後を代表する女流歌人、河野裕子さんは彼岸へと旅立っていった。
「平明でしかも柔軟な言葉で女性の暮らしを詠い続けた歌壇の新たなリーダーだった。あの歌風は誰にも真似ができません。でも、私自身は河野さんの最大の功績は家族全員が一流の歌人になったことではないかと思っています。それは歌人としてはもちろん、妻として母親としての河野さんの在りようを物語っているように思えるのです」
と、語るのは歌人で河野さんと同窓である、友人の池田はるみさんである。
歌壇に新しい風が吹いたデビュー作
河野さんは中学時代には早くも短歌を始めている。京都女子大学在学中に、ある歌会で河野さんと顔を合わせた永田さんは、初対面の印象をこう語る。
「初めて会ったときは、なんて生意気なかわいい女性だろうと思った。多感で思ったことをズケズケ口にする。でもガラス細工のような脆さも併せ持っていた。後で聞くと、高校時代には自律神経の病気で1年休学したこともあったんです」
永田さんは河野さんの感受性のあまりの鋭敏さに「君はそのままでいい」と伝え、河野さんはその言葉に力を得て作歌に邁進する。69年には「桜花の記憶」で歌壇の登竜門といわれる角川短歌賞を受賞、72年の永田さんとの結婚直後に発表した第一歌集『森のやうに獣のやうに』では歌壇に衝撃を与える。池田さんもその中の一首にショックを受けたという。
「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか」
「それまでの女流歌人というと戦災や病気など、どこか不幸の影があり、作品にも鬱屈した部分があった。でも河野さんの歌はどこまでも伸びやかだった。たとへば君、という初句を見ても、従来の初句の常識を軽々と打破しているし、最後のくれぬかで気持ちの強さが現れている。この一首だけでも河野さんの非凡な資質をうかがい知ることができます」
そうして河野さんは順調に作品を発表し続け、歌壇での地位を確立する。夫の永田さんも東京の企業に就職後も作歌を続け、75年には第一歌集『メビウスの地平』を出版する。
夫への深い愛が家族と歌に実りをもたらせた
その後、永田さんは民間企業の研究職を辞して京都大学で無給の研究員となり、家族を養うために夜間も塾講師として働く。そして河野さんはそんな永田さんをひたすら気遣い続けた。
「母にとって父は絶対の存在で、父が生きているか心配で、夜、寝息を確かめていたこともしばしばだった。私たちにも『私の仕事は永田和宏を1日でも長生きさせること』と話していたほどでした」
と、紅さんは話す。
河野さんはまた1人の人間としても母親としても、型破りな人だった。続けて淳さんは語る。
「ふだんはいかにも頼りなげなのに、ここ1番では凄まじいエネルギーを出す。子供への接し方にもまるで頓着しなかった。通知簿など気にしたこともないし、『子供にはごはんさえ食べさせておけばいい』と言っていましたね」
子供を生み、育てていく中でも河野さんは永田さんだけを思い続けていた。だからこそ自分たちもまっすぐに育ったのかもしれない、と淳さんはいう。
こうして2人して作歌を続ける間に、2人の作品は高い評価を得、93年には永田さんは自らが所属する短歌会「塔」の主宰者となり、河野さんもその選者となる。もっともその少し前、京都大学教授になったとき、永田さんはこのまま短歌を続けることに迷いも感じたと言う。
「学生たちに研究に専念しろといっていながら、自分は歌づくりを続けている。これでは示しがつかないと思ったのです」
もっとも、自らの傍にいる河野さんとの思いを交換する大切さは、その迷いを打ち消し、2人は折々の心境を綴りあいながら年を重ねていく。しかし、そんな穏やかな暮らしに暗い影が差し込む日が訪れる。
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