ジャイアンツの申し子と呼ばれた男の生き様 人生の9回裏、彼の手は仲間にしっかりと握られた――。土井正三さん(元読売ジャイアンツ選手)享年67

取材・文:常蔭純一
発行:2011年8月
更新:2018年10月

  
土井正三さん 土井正三さん
(元読売ジャイアンツ選手)
享年67

読売ジャイアンツの黄金時代を飾った選手の1人、土井正三さん。進行した膵がんと闘いながら、彼が最期に手にしたものは何だったのか――。


「2番 セカンド土井」──。

このアナウンスに球場のスタンドを埋めたジャイアンツファンは拍手と声援を送り続けた。

──2007年6月8日。巨人軍通算5,000勝記念イベントの一環として行った「V9勢揃い」で、かつての名2塁手、土井正三さんは、後輩選手に付き添われて車椅子に乗り、懐かしいジャイアンツの復刻ユニフォーム姿でファンに笑顔で応えた。

「もちろん車椅子姿だったこともあるでしょう。主人は盛大な拍手をもらっていた。ファンに覚えていてもらったことがよほど嬉しかったのでしょう。病院に帰ってからも、『よかった、参加して本当によかった』とくり返していたものです」

と、奥さんの宣子さんは語る。

大喝采を浴びたV9戦士

読売ジャイアンツの黄金時代を築いた

王貞治さん、長嶋茂雄さんらと共に、土井さんは読売ジャイアンツの黄金時代を築いた

かつてプロ野球は日本のエンターテインメント・スポーツの頂上に君臨していた。土井さんはそのプロ野球の黄金時代、昭和40年から48年の9年間にわたって、ジャイアンツが日本1の座を守り続けた、いわゆるV9の中心選手の1人だった。

「相手チームからすると守備、攻撃の両面で、しぶとくて何をするかわからない嫌な選手だった。ジャイアンツがV9の偉業を達成できた秘訣は王さんや長嶋さんだけにあったわけではない。彼ら大選手と僕や正ちゃんのような小兵選手がまとまって絶対のチームワークが築かれていたからで、それが当時のジャイアンツの最大の強みでした」

と、当時を振り返るのは、土井さんとの名コンビで2遊間を固めていた黒江透修さんである。

そのイベントは膵がんを病む土井さんにとっては、ファンたちとの最後の交歓の場でもあった。その後、再び闘病に臨んだ土井さんは、2年あまり後に静かに世を去っていく。それは迎合や栄達を求めることのない、生粋の野球人の死に方だった。

語り草になったホームスチール

黒江透修さん

土井さんと抜群のチームプレイでジャイアンツを常勝に導いたV9戦士の黒江透修さん

立教大学で野球部主将を務めた土井さんが、当時の読売ジャイアンツ監督の川上哲治さんに見込まれて読売ジャイアンツに入団したのは、1965年のことだ。しかし入団時の評価は決して芳しいものではなかった。

「入団当初、正ちゃんはショートを守っていた。でもやせっぽちで肩は弱いし、バッティング練習でもボールがまともにバットの芯に当たらない。正直、何であんな選手をとったのだろうと首をかしげていたものです」

と、黒江さんは振り返る。

しかし実戦派の土井さんは、試合になると別人のようなプレーの冴えを見せ、すぐにレギュラーの座をつかみ、黒江さんや俊足ランナーの柴田勲さん、高田繁さんとともに王、長嶋の脇を固める名脇役として活躍した。当時のジャイアンツの強さを黒江さんはこう語る。

「当時のジャイアンツはドジャース戦法と呼ばれる緻密な守りの野球を標榜していた。とにかく相手の嫌がる野球をやる。柴田や正ちゃんは、バントや盗塁やヒットエンドランで相手チームを攪乱する。そうして投手にプレッシャーを与えたところでO(王)N(長嶋)の2人で、ドカンと得点していたのです」

緻密な野球の中心にあるのが土井さんであり、黒江さんだった。また、ひらめきの鋭さも土井さんの身上だった。1969年の日本シリーズ、阪急ブレーブス戦で相手バッテリーの裏をかいてホームスチールを敢行。審判の物議を醸したホームスチールだったが、その盗塁技術の高さが「奇跡の走塁」と評され、チームをシリーズ優勝に導いたことは未だにファンの間で語り草になっている。

土井さんの現役選手としての在籍期間は11年間。その間の生涯打率は0.263。決して突出した記録ではない。しかし、数字には残らないしぶとさやひらめきに満ちたプレーでファンをうならせた。土井さんは、職人肌のプレーヤーだった。

一途な生粋の野球人

しかし野球に賭ける一途さがときにトラブルをもたらす原因となった。とくに川上さんとの衝突は後々まで尾を引き続けた。

「我々1選手から見れば、川上さんは雲の上の存在だった。でも正ちゃんはその川上さんにも意見した。正ちゃんの行き過ぎが原因で高田がエラーをして2軍に落とされたときも、正ちゃんは『オレを落としてくれ』と監督に訴えた。監督は高田が器用貧乏にならないよう、2軍で鍛え直そうと考えていたのだけど、その真意が正ちゃんには伝わらなかった」

そして入団7、8年目には成績不振でレギュラーを外され、起用をめぐって衝突を続けることになる。しかしその後、川上さんが辞任。後任には土井さんが敬愛していた長嶋さんが監督に就任。そして1978年、土井さんは現役引退を決意した。

「その年は生涯最高の成績を残していました。それでまだまだやれるといっていた矢先に、長嶋さんの懐刀としてコーチ就任を乞われたのです。あのときはあのおしゃべりな人がほとんど口も聞かず、ずいぶん悩んでいたものでした」

と、宣子さんは述懐する。

イチロー降格でバッシング

イチローを見出せなかった監督

「イチローを見出せなかった監督」とのバッシングに、土井さんは無言で闘った

その後、土井さんはジャイアンツの守備走塁コーチから評論家に転じ、91~93年まではオリックス・ブルーウェーブの監督に就任する。しかし、現役引退後の野球人生は、それまでのように順風満帆とはいかなかった。とくに土井さんの人生に深い影を落としたのが、今もメジャーリーグで活躍を続けるイチローを2軍に降格させた一件だった。

「主人もイチローさんの才能は認めていました。ただその才能をより大きく開花させたいと思って2軍に降格させたと話していました」

と、宣子さんは語る。

しかし土井さんが監督を辞任した後で、イチローはブーム現象となるほどの活躍を見せ、土井さんは「イチローを見出せなかった監督」というレッテルを貼られる。もっとも土井さんはそうしたバッシングに全く反論しなかった。そして、その一件を境に、プロ野球の表舞台から徐々に遠ざかっていった。

ちなみにイチローとの関係修復を思ってか、土井さんは単身、渡米してイチローが所属するマリナーズのキャンプを訪ねたことがある。しかしマスコミの横槍が入り、会見は叶わなかった。その際に手渡そうと購入した花束は、捨て置かれたままだった。

メモとスクラップ

コーチ・監督時代、そして引退後も綴られ続けたメモとスクラップ。土井さんの頭脳野球はこうして作られた

もっとも、そんなことがあっても、土井さん自身は意気軒昂だった。ジャイアンツ時代の僚友だった柴田さんや蓑田浩二さんとゴルフに出かけ、家庭では宣子さんや3人の子供たちとむつまじい暮らしを続けていた。07年の1月には結婚40 周年記念として、宣子さんと東京、芝のレストランに食事に出かけ、その際に「生まれ変わっても一緒になりたい」と綴られたラブレターを手渡した。

野球への情熱も変わらなかった。宣子さんによると、土井さんは自宅でのテレビ観戦中でも細かくメモを取り、新聞記事もスクラップして、監督、コーチとしての復帰に備えていたという。また人に乞われてプロ野球のОBが集うマスターズリーグの監督にも就任していた。

土井さんの体の異変が発覚したのは、そんな穏やかな日々のなかでのことだった。


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