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迫りくる死と闘いながら、彼女は最後まで舞台に立ち続けた 命の限りがわかったとき、最も輝ける場所がわかった――。深浦加奈子さん(女優)享年48
(女優)
享年48
テレビドラマの名脇役として知られる、女優・深浦加奈子さん。「存在感のある女優になりたい」その願いどおり、生が許すそのときまで演じ続けた彼女が、最後に選んだ場所とは――。
ソフトバンクなどのCM演出家として知られ、劇作も手がける山内ケンジさんは、この5月に上演が予定されている演劇「メガネ夫婦のイスタンブール旅行記」の脚本執筆に余念がない。その執筆中、ストーリーのイメージを膨らませるたびにある女優の姿が脳裏によみがえるという。
「僕は脚本読みの段階では、まだ半分ほどしか執筆しませんでした。あの人が脚本をどう解釈し、どう演技するか。そのことを確かめながら、それまでの脚本に手を加え、新たな部分を書き加えていった。あの人がいるから僕は芝居を作り続けることができた。1人の脚本家として、また演出家として、あの人からは実に多くのことを学ばせてもらいました」
山内さんがあの人というのは、テレビドラマの名脇役として知られた女優・深浦加奈子さんである。と、いうとコミカルな役回りながら、強烈な存在感を放つあの姿を彷彿とする人も少なくないだろう。
覚悟のうえで舞台に生きる
深浦さんは 03 年3月に大腸(S状結腸)がんを患い、以来5年にわたって治療、そして症状の悪化と好転をくり返していた。そんな闘病生活のなかで深浦さんが最後に選択したのが舞台女優としての仕事だった。
「今、振り返ってみると深浦さんは覚悟を決めて、僕の芝居に出演してくれていたことがよくわかります。制約の多いテレビドラマではできなかった自らの演技を舞台で披露しようと、僕の芝居に全力投球してくれていたのです」
と、山内さんは述懐する。 そうして1人の舞台女優として自らを完全燃焼させた後に、深浦さんは静かにこの世を去っていった。
前衛劇で時代を疾走した
深浦さんが女優としての道を歩み始めたのは1980年、深浦さんが明治大学文学部演劇科に入学したその年のことである。同じ大学の1年先輩で、後に岸田國士戯曲賞を受賞する演出家、川村毅さんと意気投合、川村さんが旗揚げした劇団「第三エロチカ」に入団したことがきっかけだった。当初は裏方を希望していたものの、川村さんに懇請され、女優として舞台に立つことを決断したという。
父親の栄助さんは深浦さんの初舞台に、衝撃を受けたという。
「ガレージに作られた掘っ立て小屋のような劇場で妻の赤いガウンをまとい、絶叫するようにセリフを話していた。私にはそれが何を意味しているのかわからなかった。ただ、加奈子が失敗しないように祈るような気持ちで舞台を注視していました」
いたたまれなくなった栄助さんは、途中で劇場を後にしたという。その後も栄助さんは深浦さんの将来を心配し続けていた。
だが、10数年後、NHKの大河ドラマ「秀吉」に出演しているのを見て、ようやく安堵の胸をなでおろしたという。
しかし、そうした家族の不安とは裏腹に、川村さん率いる第三エロチカは「爆弾横丁の人々」「コックサッカーブルース」など、次々に話題作を上演、一部の演劇ファンの間で熱烈な支持を受ける。そして、深浦さんは第三エロチカの看板女優として不動の地位を確立する。深浦さんは、川村さんと二人三脚で80年代を駆け抜けていった。
その深浦さんがより大きな世界に羽ばたき始めたのは、90年代に入ってからのことである。
89年に第三エロチカを退団、それからはよりポピュラーな商業演劇、さらにテレビドラマにも活躍の舞台を広げていく。そうして深浦さんは、地道にキャリアを積み上げ、40代にはテレビ界になくてはならない名脇役としてのポジションを確立する。
深浦さんががんに侵されていることがわかったのは、そんな女優としての円熟期に差しかかった矢先のことだった。
入院2日目にドラマ撮影
03年3月、深浦さんは原因不明の激烈な腹痛に見舞われ続ける。実はその1、2年前から便秘や腹痛があり、婦人科を受診したが何の異常も発見されていなかった。連続ドラマの収録終了を待って、大学病院で検査を受けた深浦さんに下されたのは、思ってもいない「大腸がん」という医師の言葉だった。
別の総合病院でのさらに詳細な検査の結果、深浦さんの症状は浸潤やリンパ節転移のないステージ2と診断される。10日後に予定された手術に備えてそのまま入院。もっともその時点では状況はさほど深刻ではなかった。実際仕事最優先の深浦さんは入院2日目にしてテレビドラマ撮影のために、終日の外出を果たしているほどだ。
しかし、現実はずっと深刻なものだった。手術のために開腹すると、症状は予想よりもはるかに進んでおり、リンパ節転移をともなうステージ3bに達していることが判明した。管理栄養士で看護師の資格も持つ母親の京子さんは手術後、摘出されたがんに触れて、3センチに達するしこりの大きさに状況の厳しさを思い知ったという。
もっとも実際の手術は成功に終わり、深浦さんは再びテレビ界に復帰を果たす。そして、数え切れないほどのドラマに出演し、以前にも増して幅広い人気を獲得する。しかし、その裏側では、大腸がんの再発・転移と治療による小康状態がくり返されており、まるでイタチの追いかけっこのような闘病生活であった。
初めてがんが見つかってから2年後の05年4月には深浦さんは重篤な腸閉塞に苦しみ、さらにその翌年には、2度の肝転移に見舞われている。もっとも、そのたびに深浦さんは、驚異的とも思える生命力を発揮し、修羅場をくぐり抜けている。
危機的な状況だったのが、2度目の肝転移が発覚したときだった。手術が難しい肝門部への転移で、1度は医師からも「治療の術なし」とさじを投げられたほどだった。しかし、このときも深浦さん自身が提案した放射線治療により、辛うじて危機から脱出を果たしている。深浦さんは、生を全うするために自らもがんを学び続けていた。
そうした過酷な闘病生活の中で、深浦さんの仕事にも大きな変化が生じている。
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