彼女の愛は、今も生き続けている 人を愛し、音楽を愛した歌姫の最期の命の輝き――。本田美奈子.さん(歌手・ミュージカル女優)享年38

取材・文:常蔭純一
発行:2011年4月
更新:2018年10月

  
本田美奈子.さん 本田美奈子.さん
(歌手・ミュージカル女優)
享年38

華奢な体から発せられたその歌声は、多くの人々を魅了した、歌手・本田美奈子.さん。急性骨髄性白血病と闘いながら、本田さんが描き続けた夢とは何だったのか――。


写真:モニュメント

本田さんの母・工藤美枝子さん(左)、実妹の岡村律子さん。本田さんの故郷・朝霞駅(埼玉県)に作られたモニュメントには今もファンからの花が絶えない

「心が開いて(原文ママ)、心の目で周りを見渡してごらん。
きっと小さな幸せの芽が見つかるよ。そこで、そこから少しずつ笑顔が生まれてくる。
笑顔が生まれはじめたら喜びに変わるのももうすぐ」(「笑顔」本田美奈子.)

東武東上線朝霞駅前のロータリーに作られた、この町で育った歌手、本田美奈子.さんを悼むモニュメントには、こんな詩が刻まれている。

この詩は05年11月、急性骨髄性白血病で亡くなった本田さんが、病いと闘っている最中に病室で綴ったものだ。厳しい闘病生活を続けながらも本田さんは人を癒やし、勇気づけようと、思いやりに満ちた言葉を発し続けていた。そして、おそらくはそのことによって自らをも奮い立たせていたに違いない。

無菌室からカードで誕生日を祝福された

写真:高杉敬二さん

22年にわたって本田さんと仕事をしてきたエグゼクティブプロデューサーの高杉敬二さん

母親の工藤美枝子さん、それに本田さんの所属事務所社長・高杉敬二さんとともに、毎日のように本田さんを見舞い続けた実妹の岡村律子さんは話す。

「私とボス(高杉さん)は同じ2月生まれで誕生日が1日違い。そのときに姉を見舞うと、治療を受けていた無菌室の窓ガラスに『ボス、誕生日おめでとう』と、画用紙に書いてあり病室にある物で工夫して飾りつけてあった。翌日には、また違う画用紙に『りっちゃん、誕生日おめでとう』と書いて窓ガラスに貼られていました。食事もできず、呼吸することさえ苦しそうな状態なのに、姉は私たちへの思いを伝えてくれたのです」

デビュー以来、22年にわたり本田さんと文字通り、二人三脚で仕事を続けてきた高杉さんはこう述懐する。

「どんなに苦しくても笑顔を絶やさなかった。人の幸せばかり思い続けた無私の人でした」

本田さんの死後、高杉さんはその遺志を継いでNPО法人「リブ・フォー・ライフ美奈子基金」を創設、また多くの会員のためファンクラブも続けている。

「私は今も美奈子と共に仕事を続けています。私の中では美奈子は生き生きと呼吸を続けている。美奈子の思いを1人でも多くの人に伝えるために私は続けているのです」(高杉さん)

徹底したプロ意識を持っていた

本田さんが歌手デビューしたのは85年。原宿で女性歌手グループのメンバーを探していた高杉さんの事務所のスタッフにスカウトされたのがきっかけだった。

意外なことに本田さんは演歌が大好きだった。本田さんの「天城越え」を聞いたときの興奮を今も忘れていない。

「透明な天使のような声で、しかも独特のビブラートを持っている。瞬間的にこれはモノになると直感しました」(高杉さん)

その後「殺意のバカンス」でデビュー。4曲目の「1986年のマリリン」が大ヒットとなり一躍、注目を集める。

本田さんは徹底したプロ意識の持ち主だった。90年代に女性だけのロックバンドを結成したときに、スタッフの一員として姉の後ろで歌っていた律子さんはこう語る。

「姉妹ということでの甘えは一切、許されませんでした。私がバックコーラスをしたとき1度、ステージで足が肉離れしていますが、そのときに最後まで歌えたのも、姉だったらどうするかを考えた結果でした」

その本田さんにとってあらゆる面で転機となったのがミュージカル「ミス・サイゴン」への挑戦だった。

ミュージカルに向けた白紙の1年間

写真:多彩な音楽に挑戦した本田美奈子.さん

ポップ、演歌、ロック、クラシック、ミュージカル……多彩な音楽に挑戦した本田美奈子.さん

欧米各国で上演され、日本でも92年から上演が決まっていたこの作品には、多くの大物歌手を含めて総勢1万人を上回る出演応募者がいた。だが本田さんは7回のオーデションを経た後に、見事にヒロイン役として白羽の矢を立てられるのだ。その後がまた本田さんらしい。

「話があるというので何かと思うと、1年間、仕事を休ませて欲しいというのです。その間に自分を白紙にして、歌やダンスのレッスンを受けたいというのです。人生を100ページの本にたとえて、1ページくらい白紙があっても、後でその部分は書き込めばいいじゃないというので、私も納得せざるを得ませんでした」(高杉さん)

何ごとも徹底しないと気のすまない本田さんは、ベトナムを知るためにその地に赴き、苦手なダンスのレッスンも先頭に立って受けた。また1年半にわたる上演中には滑車で足を轢かれる事故にもあったが、激痛をこらえながら歌い続けたこともあった。こうした体験を通して本田さんは大きく成長する。

「歌を通して人の気持ちを理解するようになった。それはミュージカルという共同作業を経験したからでしょう。それまでにもまして人に心を開くことができるようになりました」

本田さんはそう述べていた。

その後も本田さんは何本ものミュージカルに出演、さらにクラシックにも挑戦する。高杉さんは将来的にはアメリカのカーネギーホールへの進出も考えていたという。本田さんにがん細胞が見つかったのは、そんな希望に満ちた05年の1月だった。

前年の秋ごろから本田さんは体調を崩しがちで、美枝子さんは「耳から心臓が飛びたしそうなほど動悸が激しい」という訴えも聞いている。もっともプロに徹する本田さんは仕事を休もうとしなかった。

しかし長期ツアーを控えた1月、念のためにと都内の大学病院で人間ドックを受診したところ、急性骨髄性白血病の診断が下される。

突然のがん告知。がたがたと震えながらも、本田さんは思いやりを忘れなかった。泣き崩れる美枝子さんに、「大丈夫、すぐに治して見せるから」と、言葉をかけていたという。


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