亡くなる前日までナシモト・ニュースは配信された 時代を駆け抜けた元祖芸能リポーターは仕事と家族を愛し貫いた──。梨元勝さん(芸能リポーター)享年65

取材・文:常蔭純一
発行:2011年2月
更新:2018年10月

  
梨元勝さん 梨元勝さん
(芸能リポーター)
享年65

「恐縮です!」の言葉でおなじみの芸能リポーター・梨元勝さん。直球勝負でスクープにぶつかっていく梨元さんは、肺がんがわかった後も、病室からニュースを配信し続けた。そんな梨元さんが過ごした最期の日々とは──。

昼はオフィス、夜は団欒の場

東京都渋谷区にある東海大学医学部付属東京病院のその病室は、さながら個人用オフィスだった。

デスクにはインターネットを引き込んだパソコンやファクシミリが置かれ、またひんぱんに訪れる来客用にベッドに対峙してソファが配置されていた。

病室の主は、日中は4基の携帯電話を操って取材をくり返し、忙しくパソコンのキーを叩き続け、その合間を縫って取材や打ち合わせにも応じていた。

しかし夜になると病室の様相は一変した。妻と1人娘とのさりげない、しかし思いやりに満ちたひとときは、死の直前まで仕事に追われ続けたその人にとっては、かつてない濃密な家族との心の交流の時間だった。

「毎日、取材に飛び回り、帰宅してもそのまま仕事部屋にこもり切りで、団欒の時間はほとんどありませんでした。でも早くに両親と別れ、祖父と2人きりで暮らしていたせいか、いつも家族のことを気にかけており、帰宅前には必ず電話をかけてくれていました。病院でともに暮らしながら、そんな夫の優しさを強く実感することができました」

その人の妻、玲子さんは、彼の最期のひとときについてそう話す。玲子さんは自宅にいると、今でも彼は仕事で外を飛び回っていて、日課だった『帰るコール』が今日ももうすぐかかってくるのではないかと感じることがあるという。

その人、梨元勝さん。芸能リポーター、肺がんで2010年8月に帰らぬ人となる。享年65──。

梨元さんは仕事を愛し、そしてその年代の日本人男性によくみられるように不器用ながらも懸命に家族を愛し続けた人だった。そしてがんを患った後も、梨元さんは、最期までそうした自らの生き方を貫いた。

芸能リポーターのパイオニア

写真:石川敏男さん

「梨元さんからふと電話がかかってきそうで、携帯電話のメモリーはそのままに」という石川敏男さん

テレビ界に芸能リポーターと呼ばれる人たちが登場したのは70年代半ばのことだった。女性誌記者からテレビ界に打って出た梨元さんはそのパイオニアである。以来、「恐縮です」の名セリフで突撃取材を続け、数々のスクープを世に送り続けていった。

梨元さんとは38年にも及ぶつきあいで、梨元さんの仲介でやはり活字の世界から芸能リポーターに転身した石川敏男さんは、その仕事ぶりについてこう語る。

「梨元さんは日本に芸能リポーターという職種を成立させた人で、リポーター仲間の1歩も2歩も先を行っている人だった。一本気で取材対象にのめり込み、思い込んだら命がけ、いつでも直球勝負で仕事に取り組んでいた。だからこそ多くの芸能人に、同じ話をするなら梨元に、と慕われ続けたのでしょう」

ゴシップやスキャンダルが露見して記者会見を開くと、主催者はまず梨元さんを探し、次いで石川さんに視線を振り向ける。石川さんは、そんな梨元さんの存在の大きさに嫉妬を感じることもあったという。

もっとも一本気であるがために大手芸能プロダクションに迎合するテレビ局と対立することも決して少なくはなかった。梨元さんが主戦場であるテレビ局を転々と移り変わったのもそのためだ。

ここ数年はテレビ局の自粛傾向に拍車がかかり、スクープを身上とするリポーターの出番は激減していたという。さしもの梨元さんもテレビでの出演機会は減少を続けていた。そんななかで梨元さんはネットに新たな活路を見出し、そこで「梨元・芸能!裏チャンネル」という番組を提供する。梨元さんにがんが見つかったのは、そんな自らの新たな方向を模索していた矢先のことだった。

病気のデパートのような人だった

梨元さんというと、あの行動力、1点の曇りも感じさせない笑顔から、絵に描いたような健康体をイメージするのではないだろうか。しかし、現実の梨元さんは病気のデパートのような人だった。玲子さんとの結婚後も肺炎、腎臓病、それに拡張型心筋症など、11回もの入院生活をくり返している。そのせいだろう。玲子さんによると、2010年4月、胸に重苦しさを感じたときも本人も家族も肺炎がぶり返した程度に考えていたという。事実、同病院での検査結果も当初は「肺炎」というものだった。「レントゲン写真を見せてもらうと肺一面がすりガラス状に写っていた。以前、肺炎を患ったときも同じような状態だったので、また2、3週間、入院していればよくなるだろうと考えていたのです」

と、玲子さんは語る。

しかし、現実はずっと過酷なものだった。2週間の入院の後、容態に変化がないまま退院するが、自宅で仕事をしていて胸の重苦しさは変わらない。3週間が経過したころ、あまりの息苦しさに耐えかねて、梨元さんは再び同病院に入院する。再度の検査の結果、下された診断は肺がん、それも末期のステージ4というものだった。

「タバコも吸わない自分がなぜ肺がんに……」と梨元さんはひどく困惑していたという。

「肺がんにはいくつもの種類があるらしいのですが、主人の場合はそのなかで腺がんと大細胞がんが同時に起こっていて、しかも進行の速い、良くない性質のがんということでした。医師の説明を聞いて、私も死を意識せざるを得ませんでした」

玲子さんは、なぜ最初の入院でがんが発見されなかったのか、また容態に変化がないのに退院することになったのか、今も疑問を感じている。さらに梨元さんの面前でがん告知が行われたことにも納得していないという。

「主人は以前から、がんになっても、そのことを告げないでほしいといっていた。今では告知は当たり前のことでしょう。でも、それにしても私や娘を間におくことでショックを和らげる告知の仕方もあったように思えてなりません」


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