- ホーム >
- 闘病記 >
- がんになった著名人 >
- 最期の生き方、最期の死に方
がんになったその日から毎晩かかってきた電話 「生きることの尊さ」を伝える後継者づくり、それが最期の仕事だった──。井上ひさしさん(作家・劇作家・放送作家)享年75
(作家・劇作家・放送作家)
享年75
「ありふれた日常を生きることの尊さ」を描くことをライフワークに、戯曲の創作に邁進していた井上ひさしさん。がんになっても、変わらずに創作に意欲を燃やしていた。だが、徐に迫りくる死の気配を感じながら、井上さんは最期をどう生きたのか──。
毎夜、続けられた演劇講義
昨年秋から今年の初めにかけて、劇団「こまつ座」の現社長、井上麻矢さんは、期待と緊張が入り混じった複雑な思いで、毎夜のようにある電話を待ち受けていた。呼び出し音が鳴るのは決まって深夜の11時過ぎ。電話の主は麻矢さんの実父で日本を代表する作家、劇作家、放送作家で、当時は自身が創設したこまつ座の座付き作家でもあった故・井上ひさしさんである。
「いい芝居とよくない芝居は、どうして見分けると思う」
「あの芝居の仕掛けはどこにあったかな」
受話器をとると核心を突く質問が矢継ぎ早に投げかけられ続ける。
「今から思うと父からの電話は私にとって演劇の世界で生きていくための試金石でした。演劇の見方から父の手になる戯曲の作中人物の心境に至るまで、演劇に関するありとあらゆる質問が投げかけられた。私が的外れな答えを返すと、それは明日にしようと宿題として残される。試されていることがわかっていたから、まったく気を抜くことができませんでした」
と、麻矢さんは振り返る。
井上さんは麻矢さんの高校時代にそれまで二人三脚で人生を歩み続けた前妻、好子さんと離婚している。そのことへの反発から麻矢さんはずっと父親と距離を置き続けてきた。しかし数年前に和解し、2年前に会計担当としてこまつ座に参画。その頃には会計と制作の両面を担う支配人として働いていた。
毎夜のようにくり返される井上さんの電話は、その麻矢さんをこまつ座の後継者として鍛え上げるためのいわば特別講義だった。
「あのときの経験があるから私は今、こうして劇団を主宰することができている。もちろん、これからもっともっと勉強して実力を磨いていかねばなりません。しかし、その土台は父が作ってくれたと思っています」
そして、それは肺がんを病み、死を意識した劇作家、劇団主宰者としての井上さんの最後の仕事でもあったに違いない。
並ぶ者のない最高峰の劇作家
井上ひさしさん──。
1934年山形県生まれ。カトリック修道会の孤児院から上智大学に進学し、卒業後に放送作家として国民的人気テレビ番組となる『ひょっこりひょうたん島』を手がけた後、作家として『青葉繁れる』、直木賞を受賞した『手鎖心中』、『吉里吉里人』など数多くの小説、童話、随筆、戯曲を発表。83年にはかねてからの念願だった「劇団こまつ座」を立ち上げ、座付き作者として『きらめく星座』『父と暮せば』など後々まで世に残る作品を執筆している。
「小説家としても軽妙でユーモアあふれる文体で、多くの読者を獲得していますが、劇作家としては並ぶ者のない最高峰というべき存在でした。劇中劇やどんでん返しなど、仕掛けの巧みさと大きさは他の追随を許さなかった。私個人についていえば戯曲の読み方、作家との付き合い方を教えてくれた人でした」と語るのは70年代終わりに文芸誌『すばる』で井上さんを担当し、その後も多くの作品と深く関わった集英社の元編集者、高橋至さんである。
また井上さんは他に類を見ない完全主義者でもあった。たとえば代表作の1つ『吉里吉里人』の執筆中には、当時は千葉県市川市にあった自宅の8畳間いっぱいに紙を広げ物語の舞台となる吉里吉里国の地図を描いていたという。そうした緻密さが井上作品の質の高さにもつながっていたに違いない。
自宅前の石段で感じた「死の予感」
井上さんが、自らが肺がんを病んでいることを知ったのは09年10月下旬のことである。
その少し前、前月に書き上げたばかりの、作家・小林多喜二の生と死を捉えた『組曲虐殺』の公演を観た帰り、鎌倉の自宅前の石段を登っているときに突然、胸に違和感を覚えたのが発見のきっかけだった。雑誌『文藝春秋』に掲載された妻、井上ユリさんの『井上ひさし絶筆ノート』によると、そのときの心境として「『死』を決意した数秒間」というメモが残されている。
翌日、自宅にほど近い湘南鎌倉総合病院で検査を受けると、右肺に大量の胸水がたまっていたことがわかり、さらに右肺ががんに侵されていることが判明した。日本人にもっとも多い腺せんがんで、病期はステージ3bにまで進んでいた。
その後、すぐに井上さんは検査を受けた病院の紹介で、茅ヶ崎徳洲会病院で胃カメラ、CT、MRIなどによる検査の後、4週間に1度のペースでアリムタ(一般名ペメトレキセド)という抗がん剤を用いて4クールの通院治療を開始する。第1回目の投与は11月初め。足繁く見舞いに通った麻矢さんによると、便秘や食欲不振などの副作用はあったものの、その頃の井上さんの体調は悪いわけではなかった。
12月には新聞紙上でがんであることを公表し、闘病記の執筆も予定していた。もちろん本業である戯曲の執筆意欲も旺盛だった。麻矢さんは井上さんが『組曲虐殺』の出来に満足していたこともあって、「休みなく書いてきたのだから少し休んでは」と申し出ると「それは僕に死ねといっているのと同じですよ」と一蹴されたことを覚えている。その麻矢さんへの電話による演劇講義もこの頃から始まった。
前にあげた高橋さんは10年1月末に井上さんから速達の手紙を受け取っている。
「がん治療の現状報告や、現在のユリ夫人と幸福な生活が送れたことに感謝の言葉が述べられていました。書き残していることもあるので、春三月になればたぶん活動を再開できるだろうとも書かれていた。それで、1度は回復されるだろうと思っていたんです」
同じカテゴリーの最新記事
- 子どもたちのために、未来の土台づくりに奔走する婦人科医 末期がんに鞭打ちながら、南相馬復興に命を懸ける――。原町中央産婦人科病院・高橋亨平さん
- 飽くなき好奇心を持ち続けたニュートリノ研究の第一人者 ノーベル賞最右翼だった物理学者の最後の研究は自らの闘病生活となった──。戸塚洋二さん(物理学者)享年66
- 没後30数年経ても今なお色あせぬ世界観 戦争を憎み、子どもたちに慈愛を注ぎながら旅立った――。いわさきちひろさん(絵本画家)享年55
- 死ぬまで競馬を愛し続けた勝負師 スキルス性胃がんに侵されながらも「馬一筋」を貫いた心優しき苦労人──。吉永正人さん(騎手・調教師)享年64
- 死を恐れず、生の限界まで仕事を続けた稀代の辛口人 世論を笑い飛ばした名コラムニストは最期までペンを握り続けた──。山本夏彦さん(コラムニスト・編集者)享年87
- 鬼の演出家の志は役者たちに引き継がれた 最期まで闘い続けた演劇人は後進に囲まれこの世を去った──。野沢那智さん(声優・パーソナリティー・演出家)享年72
- アメリカ帰りのブルース歌いは、静かに日本の大地に沈んだ 「兄貴」と慕われたその人は、何も言わずに1人で去った──。デイブ平尾さん(歌手)享年63
- 突き進んで生きるその源には、ユーモアと独自の哲学があった いくつもの才能を開花させて、風のように去って行った──。青島幸男さん(作家・タレント・政治家)享年74
- 「マンガの神様」が最期まで続けた挑戦 力尽きるときまで描き出したのは、命の輝きだった──。手塚治虫さん(マンガ家)享年60
- がんの病魔と果敢に向き合い、死のときまで作家であり続けた 稀代のストーリーテラー・マルチ才人はかくして死んだ──。中島梓・栗本薫さん(評論家・作家)享年56