医師と患者が同じ土俵で話し合う機会をつくりたい
高知がん患者会「一喜会」会長の
安岡佑莉子さん
2007年4月の「がん対策基本法」施行後、各都道府県ではより具体的な対策の検討が進められている。そんななかで島根県と高知県の2県では、施行に先駆けて「がん対策推進条例」が定められ大きな話題をまいた。その高知県での条例制定のために動いたのはある1人のがん患者の家族だった。
「日本ではまだまだ、がん専門医も少ないし制度上の問題で海外の薬も使えない。それに医療構造そのものが硬直化しており、医師と患者の間で会話が成立していないことも少なくない。がん医療について勉強すればするほど、そのいびつさが浮かび上がってきた。
私はハチキンやから、理不尽なこと、納得できないことはそのままにしておけない。それで現在の状況を少しでも変えることができればと、各党県議に働きかけて条例施行を働きかけたのです」
と、語るのはがん患者会「一喜会」の会長を務めている安岡佑莉子さんである。ちなみにハチキンとは高知弁で「勝気で一本気な女性」のことを指している。
自ら語っているように、安岡さんは愛娘の英子さんにがんが見つかったときからがん医療について猛烈な勉強を続け、やがてがん患者会を発足。以来、海外の治療薬の早期承認の陳情、さらには厚生労働省によるがん治療懇話会発足のための働きかけなど、日本のがん医療向上のために活動を続けている。高知県の条例制定に際しては、条例案まで自分たちで作成しているほどだ。
そんなバイタリティに満ちた活動を通して、安岡さんは現在のがん治療をどう変えたいと思っているのか。まずは安岡さんが歩んできた経緯をたどってみることにしよう。
娘を救いたい。病院図書館で猛勉強の日々
主治医の松浦医師(中)と安岡さん親子
安岡さんの愛娘、英子さんに未分化のスキルス性胃がんが発見されたのは1999年9月のことである。まだ22歳の若さ。それだけに進行も早く、高知大学医学部付属病院で治療を始めたときには、主治医の松浦喜美夫医師から「余命1年」と告げられていたという。それが安岡さんのがん医療についての勉強の始まりだった。
「何とか娘を救いたい、その一心でがん医療についての情報集めを始めました。セカンドオピニオンを考え、書籍を買いあさって名医と呼ばれる人を調べ、100通以上も手紙を書いた。でも、ごくわずかに届いた返事には、あきらめて残された日々をまっとうすべきだとアドバイスされていた。それでセカンドオピニオンはあきらめて、私自身ががん医療について勉強して松浦先生といっしょにいろんな治療法を試してみることにしたのです」
それから安岡さんは猛勉強を始める。それまで経営していた化粧品店を閉め、病院の図書館に日参し、がんという病気や抗がん剤などの治療についての知識を蓄えていった。そうして安岡さんは松浦医師と二人三脚で、英子さんの治療について試行錯誤を繰り返したという。たとえば英子さんが呼吸困難に陥って、松浦医師がそのときに使用していたシスプラチンの副作用を指摘すると、安岡さんが薬剤を5-FU(一般名フルオロウラシル)とロイコボリン(一般名ホリナートカルシウム)に切り替えようと提案するといった具合だ。
もっともその時点では、英子さんは自らが末期状態にあるとは知らされていない。母親に勧められ、ボーイフレンドとともにスキーやサーフィンを楽しむ毎日だった。そうして、娘には目いっぱい生活を楽しませながら、安岡さんは新たな治療法を模索し続けていた。
患者さんに「癒やしの場」を提供したい
春のお花見遠足
そうした安岡さんの努力が功を奏したのか、英子さんの容態は奇跡的に好転に向かっていく。そうして3年が経過したとき、安岡さんは患者会の立ち上げを決意する。
「進行の早いがんだから3年たっても悪化しなければ、大丈夫だと確信を持っていた。そこで今度は他のがん患者さんのために働かなくてはと考えたのです。私自身がそうだったように、がん患者は絶えず不安に苛まれている。もっとも、そうした不安を解消できる場はどこにもなかった。当時は四国全体を見渡しても乳がんをのぞけば、患者会はまったくありませんでした。それで癒やしの場を提供できればと患者会を立ち上げることにしたのです」
高知大学付属病院の待合室にチラシを置いてもらい、参加を募るが反応はまったくない。そこで新聞社に働きかけて、紙上で患者会への参加を呼びかけたところ、高知県内で13人の会員が集まった。それが安岡さんの活動母体である「一喜会」のスタートだった。02年12月のことだった。
新薬承認のため厚労省に働きかけ
もっとも一喜会発足後も、しばらくの間は、活動内容は安岡さん親子の講演や患者がともに話し合うことによる「癒やし」に限られていた。しかし会員が増え、がん患者やその家族との交流が深まるにつれて、安岡さんは、日本のがん医療に内包されているさまざまな問題に直面し苛立ちを募らせ始める。
その1つとして、たとえば海外の治療薬の承認の遅れの問題がある。ある腎臓がん患者の症状が急激に悪化したときに、安岡さんはその患者に協力してネクサバール(一般名ソラフェニブ)という治療薬を個人輸入して松浦医師に協力してもらって使用した。すると短期間で症状が回復に向かっていった。それからこの薬の承認に向けて安岡さんは動き始めた。
「個人輸入では多くの人が使用するには、やはり無理がある。個人輸入してもじっさいに使用するには医師の協力が不可欠だし、その薬を使うための検査では保険が適用されません。そんなことも含めると1つの薬を使うために患者には毎月、何10万円もの負担がのしかかる。現実的に考えると、厚労省で承認されないことには、治療薬は使えないと考えたほうがいい」
そこで安岡さんは、3000人の署名を集めて、厚労省に承認を働きかける。そのことも大きな要因として作用したのだろう。この薬は2007年3月、腎臓がんの治療薬として承認される。現在は乳がん治療薬としてラパチニブの承認のために活動を続けている。
1年半の「地ならし」のおかげで条例案がすんなり可決
2007年12月に開催された第1回「高知県がんフォーラム」
安岡さんの活動は大都市と地方の医療格差是正にも向けられている。四国ブロックを設立、四国のがん対策に対しても感心を持ち四国のがん患者会にも呼び掛けている。
さらにもう1つ、安岡さんは会が発足した当初の活動の延長線上にある「患者と医療者とのパイプ役」としての仕事も続けており、現在は高知県が主宰する「がん相談センター」の所長としての肩書きも持っている。患者会のリーダーが公的な役割を担うのはきわめて異例なことだ。また患者会会長として医師にもの申すこともしばしばだ。
「忙しいから仕方がない面もあるのですが、医師の中には患者そっちのけでパソコン画面だけを見て、診断を下すような医師もいる」
と安岡さんは言う。
そうしたさまざまな活動に併行して、安岡さんは1年半の歳月をかけて県条例の施行を働きかけていたという。まず手始めに「がん専門医配置」などの案件について、陳情、嘆願を繰り返し、協力者と共に条例施行を働きかけた。「地ならし」の効果もあったのだろう。条例施行案はほとんど反対もなく議会を通過した。その日は奇しくも前にあげたネクサバールが腎臓がん治療薬として早期承認を求めた請願書と共に3000名の署名を厚生労働省に提出した記念すべき日であった。
高知開催のリレー・フォー・ライフに尽力
高知で開催されるリレー・フォー・ライフのポスター
それから1年あまり。高知県のがん医療にどんな変化があったのだろうか。
「1つはっきりしているのは患者の意識が変わったことです。それまでは自分ががん患者であることに、どことなく後ろめたさを感じていたようなところがあった。それが現在では、堂々と患者であることを表明し、自分の意見を主張する人も増えてきた。素晴らしいことだと思っています」
この安岡さんの当面の目標は、この秋に高知大学で開催を予定している「リレー・フォー・ライフ」を成功裏に導くことだ。患者が自己を主張するこのイベントに賭ける安岡さんの思いにはただならぬものがある。
「医師と患者が同じ土俵で話し合う機会をつくりたい。互いにホンネをぶつけ合えば、そこからまた何かが生まれるのではないかと思っているのです」
ハチキンの活動が高知県のそして日本のがん医療にどんな一石を投じるか。安岡さんの今後の活動から目が離せない。
特定非営利活動法人 高知がん患者会「一喜会」
高知県高知市桟橋通1丁目10番6号絹川ビル302
TEL:088-833-9323