乳がんは早期発見・早期治療で9割が治ることを知ってほしい

取材・文:守田直樹
発行:2008年7月
更新:2013年4月

  
写真:浜中和子さん
「のぞみの会 尾道」会長の
浜中和子さん

広島県に「のぞみの会」という乳腺疾患患者の会がある。いつも、どんなことがあっても「のぞみだけは捨てずに生きていこう」という思いから命名され、1993年に発足した。

この会を立ちあげたのが、皮膚科医の浜中和子さん。でも、なぜドクターが患者会をはじめたのだろう。

「私自身が乳がん宣告でショックを受け、どうしたらいいかわからずオロオロしたんです。その自分の体験とともに、ある人との出会いがきっかけでした」

体験者の励ましが、どれだけ勇気づけられるかを実感

浜中さんが乳がんと宣告されたのは1993年3月のこと。職場の広島総合病院(廿日市市)の同僚に「がんばって。きっと大丈夫ですよ」と励まされても、

――どうがんばれというの――

と、不安や苛立ちは募るばかり。どんな慰めの言葉や激励も心には響かなかった。

そんなとき浜中さんの前に突然現れたのが看護師の桜井征子さん(現のぞみの会広島の会長)だった。同じ病院の別の科で働くほとんど面識のない看護師が突然訪れたうえ、がんのことを知っていたことに浜中さんは最初戸惑った。が、桜井さんの一言で吹き飛んだ。

「先生、大丈夫ですよ、私も2年前に手術をしたんですよ」

「えっ、本当?」

桜井さんは自ら白衣をはだけ、手術痕まで見せてくれた。当時はほとんどの患者が乳房も胸筋も切除する全摘手術だったが、桜井さんは胸筋温存術。手術の痕も浜中さんが見たもののなかで1番きれいで、ふくよかさも失っていなかった。

「自分もこのぐらいなら手術に耐えられると思ったんです。体験者の励ましが、どれだけ勇気づけられるかを実感しました」

手術を受ける決心はついたものの、「治す医師」から「治してもらう患者」になり、お願いする患者の立場の弱さを痛感する日々だった。

「同じ医者の立場だから何でも言えそうなんですが、『これを言ったら先生は気を悪くしないだろうか』とか思ってしまうんです。医者の私ですらそうなのだから、一般の患者さんがどれだけ大変かと思い知りました」

手術を無事に終え、医者と患者の「両方の立場がわかるメリットを生かさないと」と、病院の1室で桜井さんとともに「のぞみの会」をスタート。手術を終えてわずか3カ月後だった。

外来で見かけた乳がん患者に声をかけ、最初は12名の会員でスタートした会も、15年を経て会員約580名の大きな患者会に育っている。

全国的な署名運動が乳がん検診体制を変えさせた

「のぞみの会」を運営するうちに、浜中さんは会員たちの話から自分で乳がんを発見した人があまりに多いことを知り、実態を調べてみた。

「驚いたことに90パーセント以上の人が、自分で見つけていたんです。実は私自身も自分で発見する数カ月前に外科の視触診で『異常なし』と告げられ、乳がんを見落とされているんです。マンモグラフィ(乳房エックス線撮影装置)の必要性を痛感しました」

2004年当時、広島県内でマンモグラフィを使った検診を行っていた市町村は全体の20パーセント未満。まず検診体制から変えたいと、検診車へのマンモグラフィ搭載などの署名運動を開始した。

そんな折、県内のNPO団体から、「ブレストピア・ピンクリボンキャンペーンin広島」の協力依頼を受けた。乳がんと直接関係のない女性団体からの要請を断るわけにはいかない。

「乳がんキャンペーンは本来、私たち患者会がすべきことだと、使命感に似たものを感じて参加しました」

「のぞみの会」の会員が全面協力するとともに、浜中さん自身も実行委員会の会合や、資金集めなどにも奔走した。

2005年5月のキャンペーン当日はあいにくの雨だったが、

「私たちは雨にも乳がんにも負けないぞ!」

写真:「2006年のブレストピア・ピンクリボンキャンペーン

2006年のブレストピア・ピンクリボンキャンペーン

写真:「リレー・フォー・ライフ・ジャパン2007」

芦屋市総合公園で開催された「リレー・フォー・ライフ・ジャパン2007」に「のぞみの会」のメンバーがピンクのタオルを持って参加

という浜中さんの元気な声が響き渡り、街頭で乳がん検診をアピールするウォーキングがはじまった。会場にはマンモグラフィを無料体験できる検診車も準備し、有用性を訴えた。

盛会に終わったキャンペーンの流れに乗り、署名も全国規模への大きなうねりとなる。北海道の友だちに送ると、その友だちがあちこちに送るなどし、

「全国にグワッーと渦まく感じで広がっていきました」

キャンペーン前には3万4000人だった署名が、わずか1カ月で一気に6万8000人に倍増。要望書を厚生労働大臣に提出すると、国が動いた。

「多くの女性が必要性を痛切に感じていたころで、タイミング的にもぴったりだったんだと思います」

05年の予算案で国がマンモグラフィ250台の整備のため39億円の補助金を出すことが可決され、いまや多くの自治体でマンモグラフィ検診が受けられるようになった。が、浜中さんはまだ満足はしていない。

「2年に1回ではなく、1年に1回の検診が必要です。でも、予算の問題などがあるので、講演などに行くと『自分の体は自分で守りましょう』と、自己検診の大切さを訴えています。乳がんは早期発見、早期治療をすれば9割が治る時代。自分たちが体験をしたからこそ、少しでも早く発見をして、お乳も命も失くさないでほしいんです」

奔走し大成功に導いた「第3回がん患者大集会」

写真:「第3回がん患者大集会」で実行委員長の重責を果たし、開会宣言なども行った浜中和子さん

「第3回がん患者大集会」で実行委員長の重責を果たし、開会宣言なども行った浜中和子さん

こうした「のぞみの会」の活動は、浜中さんが中国新聞紙上で連載した『のぞみを胸に』でさらに大きく広まった。

浜中さんはNHKの医療番組にも出演し、肝臓がん患者で大阪の開業医の三浦捷一さんともめぐり会う。三浦さんは、自らの命を賭し、全国の患者や家族が1つになるための「第1回がん患者大集会」(大阪市・2005年)を開催した。2回目以降も継続していくには、きちんとした母体が必要になる。そのためのNPO法人「がん患者団体支援機構」の「理事になってくれませんか」と、浜中さんは三浦さんから頼まれた。

「私でお役に立てるならと理事を引き受けましたが、第2回の開催3カ月ほど前に三浦先生が亡くなられ、何度ダメかと思ったかわかりません。でも、三浦先生は自分の活動が、あとの人たちの役に立てるのならそれでいいとおっしゃっていました。その遺志を継ぐため、みんなで必死になり、やっと実現できたんです」

そして休む間もなく第3回の開催地を話し合った際、浜中さんはさらなる大役を引き受ける。「がん患者団体支援機構」の理事の一員から事務局長という重職に就いたうえ、「そのときのメンバーや状況から、『これは私がやらなきゃ』」と、「第3回がん患者大集会」の実行委員長になった。


写真:「第3回がん患者大集会」

黄色いエプロンをした「のぞみの会」のメンバーなどがボランティアスタッフとして活躍した「第3回がん患者大集会」

全国から大勢の講師を招き、広島国際会議場を使う大集会の実行委員長の大変さはいうまでもない。スポンサー企業との交渉や広島での実行委員会の運営、東京の「がん患者団体支援機構」の理事会にも出席しなければならない。

午後から休診になる水曜日の診察を終えると、すぐに車で広島空港へ向かったこともあった。

「飛行機で羽田につき、東京での会議を終えたあと、7時50分の最終の新幹線で帰りました。でも、新幹線のなかは意外と寝られて、思いのほかくつろぎの場でしたよ」

平均睡眠時間は1日5時間足らず。新聞を読む時間も、湯船につかる時間もなく、2007年8月26日の当日を迎えた。

会場には全国からがん患者や家族など2000名が結集。

「私たちはもう痛みをがまんしない」という緩和ケアを主要テーマにした大集会を成功に導いた。

ところが、大会終了後、残務整理に追われていた10月の半ば、突然、首に激痛が走った。

「発狂しそうになるくらいに痛いんです。仕事は休めないので生汗タラタラ垂らしながら、手術も3例したんですよ。痛みっていうのがどれだけつらいかを実感しました」

15年経ったとはいえ、転移の可能性も懸念されたが、精密検査で転移ではなく、頸椎ヘルニアであることが判明した。

「過労でなることもあるそうです。太い針を首に刺して神経ブロックをすると良くなりました」

いまも「のぞみの会尾道」の会長や「思いやりの医療を考える会」の世話人、「がん患者団体支援機構」の事務局長……など、ボランティアの仕事数は両手にあまる。「地域の医療格差」をテーマに全国をテレビ電話で結ぶ「第4回がん患者大集会」のためにも飛びまわってもいる。が、浜中さんはこう言った。

「あんまり大変って書かないでくださいね。好きで勝手に使命感をもってやっていることですから。自分が今生きていて、元気でこんな仕事ができることを心から感謝しているんです」

浜中さんは、この「感謝」という言葉を何度も繰り返し述べた。


「のぞみの会 尾道」会長 浜中和子

〒722-0022 尾道市栗原町 5901-1 浜中皮ふ科クリニック内
TEL: 0848-24-2413
FAX: 0848-24-2423
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