世界に誇れる「東京発」のがん対策プランづくりに邁進する
年の瀬も近づく2007年12月中旬。奇しくも赤穂浪士討ち入りの日に3人の女性グループが、東京都議会を訪ね、厚生委員会に所属する各党議員に熱弁を振るい続けた。
東京のがん対策が日本の医療を変える
NPO法人
ブーゲンビリア理事長の
内田絵子さん
「日本はアメリカをしのぐ医療先進国のはずではありませんか。その日本の首都の東京のがん対策がこれでは、あまりにもお粗末すぎるのではないでしょうか。このがん対策をそのまま通したら、議員さんはもちろん、私たち東京都民にとっても恥ずかしいように思います。
東京では毎年6万人ががんになり、3万人ががんで命を落としています。がん難民は5万人といわれています。東京のがん対策が変われば、日本のがん対策が変わります。そして、それは結果的に日本の医療を変えていくことになる。そのためにぜひ、私たちの活動に協力いただきたいのです」
ときに激しく、そしてときにユーモアをおり交えながら、訴え続けるのは、約200名の会員を擁するがん患者会グループNPО法人ブーゲンビリアの理事長の内田絵子さんである。
内田さんたちが各党議員に訴えているのは昨年10月、東京都のがん対策協議会で内示された東京都の「がん対策素案」の見直しとその裏づけとなるがん対策条例の作成を求めてのことである。
これは昨年4月に施行されたがん対策基本法をより具体的に肉づけするために各都道府県で行われているもので、東京都ではそのために、昨年にがん医療の専門家など、錚々たるメンバーを集めたがん対策協議会が発足している。ちなみに内田さんはその協議会で患者委員を務めている。
「都から示された素案は予算もつけられておらず、具体性が欠落しています。誰がいつまでに何をするという役割分担も明確化されていない。
率直にいってこれではがん患者が納得できる医療を受けられるとはとても思えない。心身両面で安心できるがん医療の体制を確立するために私たちオバさんが行動しなくてはと思ったのです」
かくいう内田さん自身もかつて乳がんを経験したがん患者である。1人のオバさんがん患者がしなやか、かつたくましい提言者に変貌した背景にはどんなプロセスがあるのだろうか。そしてがん医療を理想のあり方に近づけるために、内田さんたちは何を訴えようとしているのだろうか。
講演参加者に乞われて患者会発足
NPO法人ブーゲンビリア発行の会報
内田さんの左乳房にがんが見つかったのは日本人学校の役員として働くご主人とともにシンガポールで暮らしていた1993年12月のことである。ある夜、乳房にしこりを発見した内田さんは、それががんであることを直感、翌日には早速、病院を訪ねている。そこで行われた精密検査で石灰化が進んだ乳がんが発見された。
翌年1月、シンガポールのマウント・エリザベス病院で内田さんは、左乳房の全摘手術を、そして10カ月後に同じ病院で、当時の日本ではまだほとんど知られていなかった乳房の再建手術を受ける。
「シンガポールは多国籍国家といわれますが、じっさい、そのとおりで摘出手術はインド人ドクターに抗がん剤治療と乳房再建術はそれぞれ中国人ドクターにやっていただきました。
シンガポールの医療体制はとても先進的で、当時の日本では考えられなかった患者主体の治療が行われていました。お茶やおやつを私たち患者が選べるのがとても嬉しく思ったことを覚えています」
と、内田さんは述解する。
その後、内田さん夫婦は95年に帰国。それから内田さんを取り巻く環境が激変することになる。そのきっかけは発がん以来、内田さんが綴り続けていた日記にあった。
「私は乳がんが見つかってから治療内容や自らの心境を日記にして記録していました。当時の日本ではまだ乳房再建治療が珍しかったこともあるのでしょう。知人の出版社経営者から、その日記の出版を勧められたのです」
そうして『メイド・イン・シンガポールのおっぱい』という書籍が誕生する。この書籍が予想もしなかった反響を呼ぶ。あるテレビ局ではドキュメンタリーとして取り上げられ、また内田さんが日々の生活を送る立川市からもスピーチ依頼があった。そして、そのスピーチがきっかけで内田さんは3回続きの講演を行うことになる。
内田さんがブーゲンビリアの前身である「内田絵子と女性の医療を考える会」を発足したのは、その講演の参加者からの要請に応じてのことだった。
「私の話を聞いてくれた何人かの人たちからぜひ、患者同士のネットワークをつくって欲しいと呼びかけがあったのです。もっとも私自身はどこまでできるのかと不安があった。そこで半年間、熟慮した後に私がお世話になったアジアの人たちに恩返しすることも活動に含めることを条件に、会を発足させることにしたのです」
当初の活動内容は「学び」「癒し」そして「アジアへのボランティア活動」が3本柱となっていた。しかし、活動が軌道に乗り、会員数も増加するに連れて、がんに対する見方も変わってきたと内田さんはいう。
「活動を進めている間には、たくさんの友人、知人が病床に倒れています。そのなかにはがんの痛みや治療の副作用に苦しみながら命を落としている人も少なくありません。そうした人たちを見て、もっと人間としての尊厳を重視するがん医療のあり方を考えるべきではないかと思うようになりました。そして、そうした医療を実現するには、私たち患者も声をあげていこうと考えたのです」
そうして2年前に法人格を取得し、現在のブーゲンビリアに改称、活動の第4の柱として、医療者や行政への提言活動も組み込まれることになる。もちろん今回の都への働きかけもそうした活動の一環となるものだ。
全体から俯瞰する視点も不可欠
公明党の女性都議会議員に熱心に説明する内田さん
自民党の都議会議員とブーゲンビリアの女性グループ
内田さんたちは、今回の活動を通して、具体的に東京のがん医療をどのように変えていきたいと考えているのだろうか。
まず、1つあげられるのが、患者主体のがん医療の東京都全域への浸透ということだろう。そのためにも内田さんは東京都が内示した「がん対策素案」を見直す必要があるという。
「がん患者が抱えている大きな問題の1つにQОL(生活の質)の低下がありますね。病気の痛みだけでなく、治療による副作用にも多くのがん患者が苦しんでいます。もっとも、そのなかでも緩和ケアや抗がん剤に対する副作用対策は、徐々にではありますが、医療の目が向けられつつある。
でも女性がん患者の多くが経験するホルモン療法の場合は、副作用対策はほとんど手つかずのまま放置されています。今回の対策では、そうした細部にもきちんと目配りしてもらいたいと思っているのです」
また、それとは別にがん患者だけを対象にしたコールセンターの設置も大切だと内田さんはいう。
「がん患者は心の葛藤にも苦しめられている。とくに不安に苛まれるのが、夜間や深夜の時間帯です。現在もがん拠点病院では相談を受けつけていますが、平日の4時までに受付時間が限られている。これでは本当に困っている人は、悩みを聞いてもらえないでしょう。こうした相談体制を充実させることで、いわゆるがん難民が減少し、医療コストが削減されるし、医師、看護師など医療スタッフの負担もずっと軽くなるのではないでしょうか」
こうしたいわば各論とともにがん医療全体を俯瞰したうえでがん対策を構築するためのテキストも必要だと内田さんはいう。
そこで米国CDCが発表している「キャンサー・プラネット」のような系統だったがん対策プランの構築が必要だという。
そしてもう1つ、こうしたがん対策をサポートするために都条例の起草にもこぎつけたいとも内田さんは訴える。
「患者主体のがん対策を画餅に終わらせないためには、条例によって対策を担保する必要があるでしょう。すでに新潟県や高知県、島根県ではがん対策条例が発布されています。
東京でも都や有識者、それに私たちがん患者がともに意見を出し合って、東京ならではの条例案を構築したいと思っているのです」
世界に誇れる東京発のがん対策プラン作成を目指して――。
行政、為政者、患者、そして一般市民に。内田さんの訴えの日々は続く。
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