「お願い」ではなく、患者が改革の主人公になる覚悟が必要

取材・文:編集部
発行:2007年5月
更新:2013年4月

  

2007年3月17日土曜日、さる会合に出席するために兵庫県から新幹線で上京したばかりの橋本榮介さん。橋本さんは「がんを語る有志の会」代表であり、「NPO法人がん患者団体支援機構」(俵萠子理事長)の副理事長をも務める。

治療を求めて、15カ所の病院を訪ね歩く

写真:橋本榮介さん
橋本榮介さん(東京駅で)

末期がんから生還したサバイバーであり、これまでがん医療の改善を求めて請願や署名運動を展開し、国に対しさまざまな要請書や意見書を提出してきた。

「私自身がいわゆる『がん難民』で、初めは抗がん剤とサプリメントの区別もつきませんでした。やみくもに、がんに効くといわれるものを調べ回っていました。もし情報、とくにインターネットの情報がなければ、現在の私は存在していないでしょう。がん治療では、地域・病院・医師の格差が大きいことも身をもって体験しました。でも、今の日本の医療のネックは、医者の問題というより、行政のあり方に問題があるように思うんです」

東京駅地下街の喫茶店。コーヒーカップに手をつけることもなく、橋本さんはがん闘病の経験と、医療行政に対する日頃の思いを熱い口調で語り始めた。

橋本さんは、1938年、広島県に生まれた。大学卒業後、高校の教師になり、教職に就きながら兵庫県教育大学大学院修士課程を修了。がんの手術を受けたのは、高校在職中のことで、「治療をしながらも“がん治療”と知らずに、99年3月、兵庫県立高等学校を定年退職した」のだという。

橋本さんが「知らずに治療を受けていた」という原発の肝臓がん手術(部分摘出)を受けたのは、90年12月のこと。以来、17年になるが、この間、「もう治療法はありません」と言われること2回。肺への転移がんの摘出3回、治療法を求めて訪ねたところは「15カ所を超える」という。

「治療法を探し求めて歩くなかで、さまざまな人に出会いました。そして、そこで知ったのは、生活、生きるということは政治であるということでした」

橋本さんが「がん治療」をしながら感じたのは、病院というのは患者のためにあるにも関わらず、「個々の患者の要求に応えてくれるところではない」ということであった。

治療の過程にあっては、次のような経験もした。

ある医師の本を読み、その医師の勤める北陸地方にある病院を訪ねた。肺に転移した肝臓がんに、当時はまだ認可されていなかった抗がん剤「カンプト(一般名イリノテカン)」を使って治療をしてもらうために訪ねたのであるが、

「セカンドオピニオン、結構ですよ。インフォームド・コンセント(説明と同意)も十分にとりましょう」

医師はニコニコして橋本さんを迎えてくれた。橋本さんは喜んでその病院に入院して治療を受けることにした。が、入院した途端に医師の態度が変わった。橋本さんは抗がん剤の治療を2回で止め、他の病院を探すことにしたという。

「入院して『どのように治療を進められるんですか』と訊いてみたんです。そうしたら、初めの対応と違い急に態度が変わって『患者は何も知らないんだから、黙って医者の言う通りにしていればいいんだよ』みたいなことを言われて……。それで、こんな不信を感じる医者のもとでは治療は受けられないなと、怖くなって逃げるようにして病院を出てきたんです」

日本海独特の淋しい景色を見ながら、「たまらなく侘しい気持ちになって……」北陸を後にしたのだという。

「もう治療法はありません」と、2度の宣告を受ける

写真:御嶽登山に挑戦
御嶽登山に挑戦(背後は三笠山)

橋本さんは、「肝臓血管腫」という“病名”を告げられて最初の手術を受けてから7年後に、胸壁に転移したがんの手術を受けた。このときの医師は「がん」とは告げず、「腫れ物(ガングリオン)のようなもの」と説明した。その2年後に肺に転移。

「もう治療方法はない」という状態になって初めて「実は肝臓がんである」ことを知らされた。

「肺への多発転移で、現状では治療方法はないからホスピスへ行くよう」勧められたのだという。

このときたまたま橋本さんの長男が、震災で会社が潰れ東京勤務になっていた。そこで会社の上司から「兄が国立がん研究センター中央病院で治療を受け、かなりよい経過を得ている」という情報を得、これを知った橋本さんも同病院で治療を受けることにした。肺への多発転移を抗がん剤で1年半治療。これが功を奏して、肺転移のがんはほとんど消失した。

しかし、喜んだのも束の間、残っていたがんがまた大きくなり出して、橋本さんは「いよいよ」の宣告を受ける。

「これ以上強い抗がん剤は、体に負担が大きすぎて使えません。治療はここまでです。あとは、ターミナルケアの施設を紹介しますから、そこでQOL(生活の質)を大切にしてケアをしてもらってください」

この言葉を最後に治療は打ち切りになった。それでも、橋本さんは、希望を捨てなかった。

「このまま人生を諦めるのはもったいない」と……

「自覚症状がとくにあるわけではないし、このまま人生を諦めるのはもったいない……」

こう思った橋本さんは、肺にあるがんを摘出してくれる病院を探し歩いた。しかし、6、7カ所の病院で、次のような理由で治療を断られることとなる。

「肝臓がんの肺への多発転移は末期がんであって、化学療法も手術もしないのが今日の医学の常識である」

一縷の望みを絶つような絶望的な言葉だったが、東京のある病院の医師の一言で、橋本さんは救われる。

「胸を開いて、今、確認できている3カ所以外にがんがなければ、手術をしてみましょう。もし、ほかにも転移しているようであれば、その時点で手術は中止しますが、それでもよいですか……?」

「それでもよい」という確約状を書いて、橋本さんは手術を受けることにした。その後、予防的に抗がん剤の投与を受けることになったが、1年後に再発。今度は、胸腔鏡を使っての手術を受けた。そしてさらに、

「次は、自分のリンパ球を培養して戻す“養子免疫療法”の治療を受けました。これが最終的に効いたのか、現在、再発の心配をしながらも、なんとか無事に日常生活を送っています」

治療中は、抗がん剤の副作用で苦しんだり、手術の痛みに耐えたり、「死の崖っぷちを這い上がるのに必死だった」と橋本さんは言う。しかし一方では、「腫瘍マーカーに一喜一憂しながらも、精神的には安定していた」とも言う。

行政を動かすには政治的運動が必要

写真:橋本さん

「がんを患いながら、今は孫までできてなお生きていることに対し、有難さを感じています」

このような経験を通して橋本さんは、今、末期がんからの生還者として1日1日に感謝し、生きる喜びを日々噛みしめている。

「ただ自分だけがこの幸運を享受してよいのか」という思いが、心の中に常にあった。その“思い”から「がん患者の悩みに少しでも応えていきたい」と患者会の活動に積極的に参加することになった。「がんを語る有志の会」に参加し、同会の会長を務めている。

橋本さんはこれまで、がんと闘いながら、「抗がん剤および副作用防止薬の早期一括承認を求める要請書」(2001年5月)、「抗がん薬の早期適応拡大を求める要請書」(2001年11月)、「がん治療薬、認可を求める意見書」(2002年3月)、「抗がん剤治療の問題点の改善を国に求める意見書」(2002年7月)などの請願や署名運動を展開してきた。

さらに2003年には、坂口厚労相宛に、未承認薬を早く使えることを願って「混合治療を認めるよう」請願書も提出した。

しかし、未承認薬の早期承認の問題など、患者の立場から窮状を訴えても、「国は患者の言うことに耳を傾けてくれない」。

これまでの活動を通して橋本さんが到達した結論は、「行政を動かすには、ただお願いするだけでは駄目だ」ということである。

「私は、エイズのときと同じような動きを、がん治療行政にも感じるんですね。国民の側に立った行政が行われないのは、国民が真剣に自分の権利として政治的運動をしないからではないでしょうか。
私は、がん患者である身として、がん治療の改善を求めていくためには、ただ行政へお願いをするだけでは駄目だと思うようになりました。エイズ患者が立ち上がって、政治的に参加していった姿は、私たちがん患者にとっても参考になります」

2005年5月には、「がんを語る有志の会」が中心となって、「第1回がん患者大集会」がNHK大阪ホールで開催され、2006年には東京NHKホールで第2回大会が開催された。第2回大会は「有志の会」代表・三浦捷一さん(故人)が構想した全国組織である「がん患者団体支援機構」が中心となって挙行されたものである。

全国的な活動ばかりではない。地方に根を張った活動も地道に行っており、2005年2月には、地元の県に「兵庫県立成人病センターをがん拠点病院に指定し、腫瘍内科を設立することに関する請願書」を提出。がん治療の改善を求めている。



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