鎌田實の「がんばらない&あきらめない」対談 「イデアフォー」世話人 中澤幾子 / 「とまり木」代表 北澤幸雄 VS 「がんばらない」の医師 鎌田實

発行:2006年3月
更新:2013年9月

  

がん患者が困難に遭遇したとき、患者会は何を、どう手助けしてくれるか

中澤幾子

イデアフォー
乳がん体験から医療を考える市民団体。1989年設立。乳がんの体験を通して、患者・家族・医療従事者・社会という4者のために、患者の権利を確立した、よりよい医療実現を目指して、活動している。独自の病院アンケートによる医療情報の公開をはじめ、講演会、患者向けの電話相談、参加者によるフリートークの「おしゃべりサロン」など、活動は活発。『乳がん治療に関する病院アンケート』など、出版活動も盛ん。会員数約500名
連絡先 〒136-0071 東京都江東区亀戸2-30-6 1F
TEL&FAX 03-3682-7906
ホームページ http://www.ideafour.org/

北澤幸雄

とまり木
がん患者の自立支援を目的に、2004年4月設立。NPO法人。障害者でも高齢者でも難病でもないために、法律や制度から洩れてしまう未認定障害者をサポートする。社会保険労務士、心理療法家も協力し年金受給、電話相談などのケアをする。1日数分しか働けないがん患者でもその体力と気力に合わせて「1分給」でできる仕事を探し、収入を得ることを目指す。現在の活動は学校や児童館、公民館、福祉施設などでの講演と実習、他にフリーマーケットやイベントへの参加など、多岐に渡る。会員数はボランティアも含め40名
連絡先 〒340-0005 埼玉県草加市中根2-27-18
TEL&FAX 048-936-8601

鎌田實

かまた みのる
東京医科歯科大学医学部卒業。長野県茅野市の諏訪中央病院院長を経て、管理者に。がん末期患者、お年寄りへの24時間体制の訪問看護など、地域に密着した医療に取り組んできた。著書『がんばらない』『あきらめない』(ともに集英社刊)がベストセラー。最近発売された『病院なんか嫌いだー良医にめぐりあうための10箇条』(集英社新書)『生き方のコツ 死に方の選択』(集英社文庫)『雪とパイナップル』(集英社)も話題に

1カ月後、1年後、10年後の私に会うことができるのが患者会

鎌田 がん治療という長期戦の中で、患者さんは常に揺れています。たとえば、セカンドオピニオンについても、医師は「行きたければどうぞ」と思っているのに、患者さんは行っていいかどうかも迷うし、どこへ行ったらいいのかについても迷います。そんな折々に頼りになり、患者さんにがんと闘う知恵を提供してくれるのが、数あるがんの患者会ではないかと思います。
そこで今回は、乳がんの患者会としてすでに長く活動をしている「イデアフォー」の世話人をしている中澤幾子さんと、未認定障害者支援という、新しい支援の仕方を模索されている「とまり木」代表の北澤幸雄さんにおいでいただきました。がんの患者さんが困っているとき、どのように助けてくれるのか、患者会の上手な役立て方とは何か、お話をうかがいたいと思いますが、最初にご自分の病気のことと、会とのかかわりについて、それぞれお話しいただけますか。

中澤 私は93年、42歳のときに自分でしこりを発見して、乳がんの診断を受けました。自分が乳がんになるなんて考えたこともなかったので、足が地に着かないほど動揺しましたが、マンモグラフィ(乳房専用X線撮影)を撮る前に、触診だけで「悪いものができている。大きいので乳房を全部取る」と言われたこと、検査結果がすぐ出ないことに怒りを感じました。当時、温存という言葉も知りませんでしたが、たまたま買っておいた雑誌に乳房温存療法のことと、イデアフォーの連絡先が載っていたので、すぐ連絡を取ったんです。

鎌田 医師はがんとは言わなかったの?

中澤 言いません。「悪いもの」でした。ですから、何を相談したらいいかもわからず、イデアフォーに電話をしたのですが、ちょうど会が『乳がん乳房温存療法の体験』という体験集を出したところで、一読を勧められました。その夜のうちに入手し、一晩かかって読みましたが、乳房温存療法とは何か、どこでやっているか、どう受けたらいいかなどを、多くを知りました。そして、当時温存できるほとんど唯一の医療機関だった、慶応大学病院放射線科の近藤誠医師にかかる決心をしました。
当日、慶応大学病院のエコーは混んでいるので、別な病院へ行って検査をし、検査結果をもって近藤さんに会いに行ったのですが、結果を診るなり、「うん、がん」(笑)。それを聞いたら、ふわっと心が軽くなりました。がんと確定してはじめて、治療選択のスタートに立てたんですね。
私は群れるのがきらいで、フリー(デコレーター)で働いていたくらいなので、患者会やボランティアなどの「集団」に強い偏見がありました。でも、電話の応対が「かわいそう」ではなく、「あなたの感じた疑問はほかの人も感じています。まず本をどうぞ」と、ドライだったのがよかったようです。救われた、明りが見えたという思いがあって、その日のうちに入会し、術後、退院した次の日に、「手伝えることがあれば、手伝います」と訪ねて行きました。
そして世話人になりましたが、患者会にはいろいろな人がいて、来年の私、再来年の私、10年後の私が見られる(笑)。乳がんという病気全体を知ることのできる空間だと思います。また、病気を知ることは恐怖をなくすことと実感しましたので、がんと言われた患者さんにもぜひ活用してほしいと思います。

組織検査もなく抗がん剤36回 自営業は休眠状態に

鎌田 北澤さんはいかがですか。

北澤 96年頃、まず右の目が腫れ、目医者に行きました。でも、何だかわからず、99年秋、大学病院で手術することになっていました。ところが、行かずに延ばしていた11月、お腹、背中、わき腹が痛くなって消化器科にかかり、リンパ節腫脹と診断されました。
緊急入院と言われましたが、私はひとりで歯科技工の会社をやっていて、開業5年めのいちばんきびしい時期でした。そこで、私は「入院できない」と断ったら、担当医に「死にますよ」との“酷知”。結局、悪性リンパ腫という診断はないままでした。
仕方なく、無理に仕事を整理して入院しましたが、診断がないので何だかわからない検査が毎週行われる。その後、抗がん剤6回ということで、2月中旬から3月末まで1カ月半行って退院となりましたが、この時点で1カ月予定の検査入院が3カ月になっていました。

鎌田 診断名はいつ言われたんですか。

北澤 あやふやです。組織も取ってないし。

鎌田 えっ、組織取ってないの?

北澤 取ってないです。最初にリンパ節腫脹といわれたとき、今思えば医師はホジキンと非ホジキンの話題に触れたんですが、「どっちにしろやることは一緒だから、わざわざ穴をあけて組織を取ることもない」と言いました。

鎌田 いや、やること一緒じゃないでしょ。

北澤 でも、知識がない患者としては、「痛い思いをしなくていいなら」と思ったわけです。
で、3カ月たって退院しましたが、仕事はゼロですから、あらためて歯科の先生方に頭を下げ、やっと再開しました。ところが、外来で病院に行ったら、抗がん剤があと30回あると言うんですよ。全部で36回のうちの6回が終わったところだと。愕然としました。

鎌田 その説明もなかったんだね。

北澤 ありませんでした。1週間に1度、6週間やって4週間休むのを1クールとして、6クール。10週×6回だから60週。ほぼ14カ月です。翌年2000年の3月まで通院しましたが、だんだん体力が落ちてきます。だましだましやっていましたが、ついに得意先にも黙っていられなくなり、「実は悪性リンパ腫で、今抗がん剤治療やっています」と話さざるを得なくなりました。そして、抗がん剤が終わったあと、3カ月ほど寝込んだとき、ようやく紹介状をもらって国立がん研究センターに行きました。そして、1週間の検査入院ののち、ホジキンリンパ腫のステージ4と診断がついたんです。

鎌田 最初はどっちの治療をしたんですか。

北澤 非ホジキンリンパ腫です。日本人の9割が非ホジキンで、私の年頃に非ホジキンが多く、目も腫れたというので、そう診断したのでしょう。

鎌田 うーん、乱暴ですね。そのままがんセンターに転院して、再び抗がん剤治療を?

北澤 いえ。体力が落ちていて、再び抗がん剤を受けたら死ぬと思い、経過観察にしてもらいました。でも、しばらくしてまた大きくなったんです。

鎌田 それは自分でわかったんですか。

北澤 とにかく痛みましたから。結局、1回目の治療終了から1年半後の2002年10月に、2回目の抗がん剤治療を始めました。2週間に1度の通院でした。

鎌田 その間に患者会と接したことは?

北澤 がんセンターに通い始めた頃、悪性リンパ腫の患者会に行きました。身も心もどん底だった頃ですが、会はまるで学会みたいな雰囲気で、話のテーマも非ホジキンリンパ腫。私には無縁だったうえ、聴いていた人がハイッと手を挙げて、「私もリンパ腫ですが非常に元気で、毎週ハイキングに行っています」と。私の求めるものはないと思い、2度と行きませんでした。

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