ドイツがん患者REPORT 36 「2度目の再発から5年」

文・撮影●小西雄三
発行:2017年10月
更新:2018年10月

  

懲りずに夢を見ながら」ロックギタリストを夢みてドイツに渡った青年が生活に追われるうち大腸がんに‥

2012年8月、大腸がんの再発で、腹膜に転移した腫瘍を切除。これが僕にとっては、最後の手術となりました。そして9月の終わりから、現在も続けているゼローダ(一般名カペシタビン)治療が始まり、朝夕3錠、1日計6錠の服用が始まりました。

腹膜切除手術前も、大腸がん肝転移手術の後遺症か、それとも抗がん薬による副作用か、その両方か原因はわかりませんが、ひどい下痢をすることが多かったのです。しかし、毎日6錠のゼローダの服用でそれがもっとひどくなってしまい、腫瘍内科医に相談すると、「とりあえず1日5錠にして、様子を見ましょう」ということになり、現在まで続いています。

それ以来、僕のQOLは〝生かさず殺さず〟と言えば聞こえは悪いですが、「普通の仕事はできないが、ご隠居生活には十分かな」といったところです。

腹膜転移が見つかる前も、結構大変でした。その頃の僕は毎日疲れていて何もできず、そうしているうちに、何かをしようという気力も薄れてきたような気がしていました。毎日、その日にしなくてはいけないこと、健常人なら問題にもならないようなことですら負担に感じるようになっていました。

腫瘍内科医に相談しても体に異常は発見されず、腫瘍精神科医を紹介されました。3カ月間通院した結果、慢性疲労症と診断され、普通は入院待ちに時間がかなりかかるのですが、なぜか急きょ精神科に入院が決まりました。

しかし、決まった直後に腹膜転移が見つかり手術。同時に、僕は甲状腺ホルモンの分泌が少なすぎることがわかりました。薬を服用すると、それまでひどかった慢性疲労症の症状がなくなり、精神科への入院は無期延期となったわけです。

父親の死

ゼローダ治療が始まって下痢などの副作用が負担でしたが、なぜか僕は元気いっぱいでした。日本にいる父親が、背骨の複雑骨折で入院したとちょうどその頃知らせが来て心配していました。それでも2013年に入る頃には、こっそり病院内で階段の上り下りの訓練をするなど回復しているとの朗報を聞き、ちょっと安心してきていました。

肥大していた前立腺の手術もうまくいき、前立腺がんの疑いもなくなったので、父親は早く家に帰りたかったようでした。ですから、2月、突然父が亡くなったという知らせが入った時、にわかには信じられませんでした。

父親は、入院中に大量の吐血、出血で亡くなりました。解剖の結果、胃の底のところの深部に腫瘍ができていて、それが近くの太い血管を破裂させたのが原因ということでした。

急なことだったので、死に目にも会えず、葬式にも参列できませんでした。無理をすれば、葬式への参列はできたかもしれませんが、ひどい下痢と腹痛で闘病中の僕は体力に自信がなくて、そのせいで他人に迷惑をかけたくないという意識が、病気になってから極端に強くなっていたためすぐに帰国する決心がつきませんでした。

「がんサポート」との出合い

それから3カ月後、僕は父の納骨のため、日本に帰国しましたが、これまでとは違い、体調を気遣って、あまり出歩くこともしませんでした。

帰国中に、姉が1冊の雑誌を、僕に買ってきてくれました。それが「がんサポート」でした。姉は1時間の昼休みの半分を職場近くの大型書店で過ごすくらい本が大好きで、偶然雑誌を見つけて、実家に1人で退屈している僕に買ってきてくれたのでした。その号はちょうど大腸がん特集でした。興味深く読み進むうちに「闘病記募集・深見賞」というのが目に入りました。

2013年6月号の「がんサポート」

ドイツに帰国後、「闘病記に応募しよう」とふと思い、姉に原稿用紙を送ってくれるように頼みました。長年、ほとんど日本語に接する生活をしていないうえ、指先に不安を感じていましたが、「がんサポート」で、深見編集長が僕と同じゼローダ治療を受けていたことや、副作用の指先等の問題を考慮していたことを読み、書いてみたいという気になりました。

「きっと入選できる」という、根拠のない自信もありました。でもいざ書き始めると、山のように問題が起こり、読めるような文字が書けないために清書に時間を費やし、推敲が十分できないままの応募となりました。でも、日本に原稿を送った時には満足感がありました。

望んでいた僕のバンド

がんの闘病以来、僕には1つの目標がありました。それはバンドを組むことです。僕のいろいろな事情を考えると、体力のいるロックバンドは無理。それで、病気になってから始めたアコースティックギターをメインにしたカルテットのようなものを想像していました。それが実現して、2013年後半の僕は、毎日が楽しくて仕方ありませんでしたし、幸福感で満ち溢れていました。

その年の前半は、悲しくつらい思いで過ごしましたが、幸福感の貯金が、日本への帰国以降、利子をつけて払い戻されたような気になっていました。

僕の闘病記は佳作に入り、その賞金に少し補充して、ノートパソコンを購入しました。それまでは、インターネットとは無縁の生活でしたが、ネットを通じて家にいても世界中とつながり、しかも日本の情報がリアルタイムで手に入るというメリットにひかれていたので、今までとは少し違う新しいものに挑戦する後押しに、その賞金はなりました。

僕専用のパソコンを手に入れたことで、メールやいろんなことがベッドの上でもできるようになり、ドイツにいても日本の情報が入ることがうれしく、僕がいなかった30年近くの日本についての知識も、おかげでやっと身につけることができるようになりました。

「R.Y.S」との出会い

2014年に入ったある日、バンドのメンバーの知人が、2012年にベストセラーとなった写真闘病記の作者だと知り、そして彼女たちが、僕が肝転移手術を受けた大学病院で新刊の出版記念の講演をすると聞き、僕は公聴に行きました。

ベストセラーの本は、作者の娘が主人公のがん闘病中のドキュメント写真集で、しかもその写真がアクトフォトと呼ばれるような、着飾ってメイクを施したモデルのようなもので、悲壮感などない写真作品となっていることが話題になりました。

併記された彼女の生活も、亡くなるまで希望に満ちたものでした。その話を編集者にしたとき、試しにレポートを書いてみませんかというオファーを頂き、そのレポートが僕にとっては記念すべきこの連載の第1回目となりました。

2014年5月号の「がんサポート」

その後、バンドのギターとヴォーカル担当のデーヴの23歳の娘が、僕の娘と変わらない若さで大腸がん肺転移が見つかりました。

そんなこともあり、「R.Y.S」というメイクとファッションそしてアクトフォトで若い女性がん患者たちを精神的に助けるという団体との密接な関係が始まりました。

コンサートやパーティを通じ、感動する出来事も多くありましたが、デーヴの娘や「R.Y.S」のメインキャラだったルイーゼの死去など、悲しく切ない経験もありました。それでも、僕にとって、彼女たちとの出会いは、いろんなことを教えてくれたと思っています。

5年目を目前に

今年(2017年)の10月で、ゼローダ治療を初めてから5年。そして、闘病記に応募してから4年になります。「がんサポート」を知り、医療側、そして医学的な知識が増え、闘病中の患者だけではない視点を得られるようになったことをすごく感謝しています。

僕は、治療の説明を、ほとんど医学的な用語なしに説明されてきました。それは、僕自身ががんという病気について無知で、漠然としか理解できず、また必要と感じていなかったためなのです。誤解がないように書けば、医療者側に専門的な質問をすればとことん細かく説明をしてくれます。

このレポートを書くようになって、にわかにたくさん勉強をせざるを得ず、それは大変良い経験でした。

最後の手術以降、生活の変化は多少はありましたが、僕自身は、さほどの変化をしてはいません。さなぎのように、じっと殻の中で、時期が来るのを待っていたようなものでした。

2度も、抗がん薬治療を中止せざるを得ないという経験をしました。それは副作用が強すぎて、ドクターストップがかかったからです。それだけ、僕には薬がよく効くと思うようにしていました。しかし、その後に再発して、どうしても再発の理由を抗がん薬治療の中止のせいにしたがっていたと思います。ですから、今回のゼローダ治療は、僕の思う安全圏の5年間はどうしても続けたいと願っていました。根拠はありませんが、5年間続けられれば、もう絶対に再発しないという自信がつくと信じていました。

「2度あることは3度ある」というよりも、「3度目の正直」のほうを信じたかったからです。その時が、目前に迫ってきました。やめても、半年は回復にかかるだろうし、健康状態が今より飛躍的によくなるなんて確証はありません。しかし、僕はそう思いたいし、実現に向けて動きたいのです。

手術時にダイエット栄養士の勉強を始めた娘は今年25歳。もう3年以上前に家を出て、恋人と住んでいます。途中で2年間のマネージメントの勉強も加えたため、今秋から就職活動に入ることになります。息子も、試行錯誤の末、今秋より、ケルンの大学の舞踏科に入り、1人暮らしを始めます。そして、僕は僕で今秋を機に、新しいステージへステップアップしようと思っています。

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