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ドイツがん患者REPORT 45 「イギリスの保健サービスとドイツの保険」
ある引退したイギリスの医師が、急病で国営病院に行ったときに体験した話を、ドイツのニュースで話題にしていました。
イギリスのNHS(National Health Service:国民保健サービス)の国営病院は、イギリス国民と国民に準ずる人や申請した人なら誰でも、無料で医療サービスを受けることができます。
彼は引退前、NHSの病院に勤務していた医師で、NHSというシステムを誇りに思っていたそうです。しかし、その病院で体験したことは、彼が信じ、誇りに思っていたものとは全く違うひどいものでした。
「病院に到着しましたが、私のところには誰も来ません。長時間、私は放置されたままでした。激しい痛みを訴えても、ペインキラー(鎮痛薬)すら貰えない有り様でした」と彼は話していました。
イギリスでも、欧州の先進国と同様に高齢化が進んでいて、患者数は年々増加の一途をたどっています。しかし、かつての大英帝国のような太っ腹な福祉はもう不可能で、国家予算の医療サービスの割合を増やしてもらえません。その結果、医師と看護師の慢性的な不足という事態を招いていて、サービスを受ける側の不満も溜まっているようです。
だからでしょう、2016年6月EU離脱を問う国民投票の際、「EUを離脱すれば、EUに支払っている無駄金を医療に回せる。そうすれば、NHSはかつてのような素晴らしい医療サービスに戻る」と宣言したボリス・ジョンソンの言葉を多くの人が信じ、それでEU離脱に投票したのでしょう。
「その結果、よくなるどころか状況は悪くなっているし、これからますます悪くなっていくだろう」と元医師は嘆いていました。
自業自得のEU離脱
イギリスと同様に、医療の現場で東欧からの看護師や医師にかなり頼っているドイツに住んでいる僕には、EU離脱でイギリスが受ける損失は、これから多大なものになるだろうという意見に賛成ですね。
イギリスの医療サービスは、EUからの、とくに東欧の人々に支えられています。医療スタッフの多くは、きつい仕事の割には低賃金です。残念ながら、このことに関しては、ドイツもイギリスも同じで、国内にはなり手が多くいません。そういう労働条件を受け入れてくれるのは、経済水準の低いEU諸国からの働き手です。
そのことに感謝すべきですが、多くの国民は感情として受け入れ難いようです。東欧からの移民が増えたことによる失業、生活慣習の違いからくる摩擦は、イギリス国民の不満を大きくしたようです。また、難民受け入れなど、自国で総てを決定できず、EUに管理されているという拘束感もあったと思います。
しかし、EU離脱で医療スタッフはもう自由にEUからは入ってこれないし、現在いる医療スタッフの多くも帰国を余儀なくされ、そして、誰もイギリスに働きには来なくなってしまうでしょう。
イギリスとしては、いいとこ取りをしたかったのでしょう。確かに、今までイギリスはEUの中でいつも特別待遇を受けていました。しかし、離脱をすれば話は別です。悪い前例を作るわけにもいかず、珍しくEUも厳しい対応をしています。自業自得とはいえ、人々の感情に訴えるポピュリズムというものの、恐ろしさを感じます。
〝ゆりかごから墓場〟まで
イギリスでは、国民の誰もが無料でNHSを受けることができますが、それは税金で賄われています。国が〝ゆりかごから墓場まで〟医療の一切合切を引き受けるということで、イギリスが素晴らしい社会福祉国家なのは間違いのないことです。
その反面、国がすべてを仕切るため、時の政権により方針が大きく変わり、極端な節約が行われることもあるという不安定さがあります。
国民皆保険のシステムを作ったドイツの場合は、健康保険とは呼ばず、Kranken Kasse(疾病金庫)と呼び、保険料金を集めるのは民営の疾病金庫です。
健康保険は、「一般保険」と「個人保険」に分けられています。個人保険は、保険料が高い代わりに医療サービスの選択幅が広く、一般保険では保険適用外の治療も適用になっています。高所得者は一般保険には加入できず、強制的に個人保険に加入させられます。
一般保険と個人保険の違いはありますが、がんなどの大病になると、標準治療なら大差はありません。ただし、個人保険なら標準治療以外の選択肢は増えますが。
また、被保険者は、自分でどこの疾病金庫に所属するかを決めることができます。しかし、現在では保険料金の差はほとんどないので、サービスの違いが疾病金庫を決める際の決め手になります。
税金による補填は当然ありますが、基本的には保険料金の徴収で医療サービスを賄います。ところが、以前は何度も財政難に陥り、そのたびに大改革を余儀なくされてきました。
薬価の決定交渉をしたり、多すぎる疾病金庫を統廃合したりして、財政を収入で賄えるように工夫をしてきました。その成功は、疾病金庫は公的なものではあっても民営だから、と僕は思っています。
医療費の節約には、ジェネリック医薬品を使うなどもありますが、「ホームドクター制」に変更できたことが大きかったと思います。これを定着させるために行ったのが、3カ月ごとに初診料を取るということでした。
このシステムが病気になったときは、まずホームドクターで診察してもらい、指示を受け紹介状を書いてもらって専門医に行くという、一見面倒で手間のかかるホームドクター制を定着させました。
3カ月に1度、Praxisgebühr(診療所代・10ユーロ/約1,280円)という初診料をホームドクターに支払います。ホームドクターの専門医への紹介状があれば、専門医での初診料は免除されます。たったこれだけのことですが、10ユーロの初診料が、軽い症状の患者の専門医での診察を減らすることができました。
2004年に始まった3カ月ごとに初診料を支払う制度は、ホームドクター制の定着を見て、そして、財政収支も大幅に改善された2012年に廃止されました。
現在、ドイツでは無料で治療を受けることができます。もちろん保険適用外のものもありますが、一般的な医療サービスは無料で受けられます。処方箋のいる薬剤は、1割の自己負担ですが、その費用が年収の1%を超えた場合は、疾病金庫に申請すれば超過分が返還されます。そのおかげで、僕は最良のがん治療を受けることができました。
ドイツでは、生まれる前に母子手帳が発行され、その時点から疾病金庫の世話になります。また、引退保険と言われる年金も扱っているので、老後の生活や高齢者介護まで、疾病金庫の世話になることになります。
〝ゆりかごから墓場〟までのイギリスは税金で、〝母子手帳から高齢者介護〟までのドイツは、保険料徴収で費用を賄います。どちらがよいか僕にはわかりませんが、普通の人が受けられる医療サービスは、ドイツのほうがよさそうです。自分たちがその費用を支払っているという明確さが、被保険者の自覚を促し、よい結果に結びついていると思います。
ドイツに来て働き始めたころ、病気知らずの僕は、保険料の支払いを無駄に感じていました。ところが、ひどいアレルギーと喘息の息子が生まれると、健康保険があることに感謝することに。人生、いつ何が起きるかわからない。だからこそ、健康保険の大切さを実感しました。
難しい医療バランス
新しい医療技術、新しい医療機器、新しい薬が開発される。先端医療が標準化されても、高額になっていく傾向は変わりません。人の寿命は延び、高齢化による疾患も増えて、患者の数は増えていくでしょう。
医療サービス、患者、費用で構成された三角形。1つがどんどん離れていっても、また2つが離れていっても三角形は歪(いびつ)な形になっていきます。初めはきれいに計算された正三角形でも、時が経つに連れバランスが崩れ、ゆがんだ三角形になっていく。
サッカーなら、3人でパスを回しながらゴールに近づき、三角形が歪でも、ゴールを決めればよいだけ。しかし、この三角形の費用君は、足が遅いので、いつもどんどん遅れていく。足の早い患者君にゆっくり走れと言うのが正しいのか、突拍子もない方向に走りがちな技術君に「考えろ、チームワークだぞ!」と言うべきなのか。
足の遅い費用君。その費用で、大きな支出になるのが人件費。慢性の人手不足。きっと近未来には、AIが診察して、ロボットが介護や治療をしてくれる。そうなれば、歪な三角形は、正三角形になるんだろうか。
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