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ドイツがん患者REPORT 58 日本からの訪問者
2008年11月末に僕の直腸がん肝転移が見つかり、闘病生活に入ってもう10年半。その間には3週間の帰国や娘の結婚等のイベントが色々あっても、これほど忙しい6月はありませんでした。
バンドINCSのボーカルとフルートを担当しているフランツィーの旦那さんが、娯楽映画を自主製作。それがミュンヘン映画祭にノミネートされて、映画のプレゼンテーションをするバンド(映画ではバンドがかなり大きな役目を果たしている)に参加することになったからです。
僕は電子楽器を扱うバンドを病気になってからは辞めていたせいで勘がなかなか戻らず、開催日も迫っていて、練習に時間を取られていました。
その最中、日本から学生時代の友人、林君が会いにやって来てくれました。僕は今でも、1日のうち元気で活動できる時間がたった4時間位しかありません。鎮痛剤を多めに飲めば、半日ほどは元気に過ごせますが、そんなことをずっと続けられません。すぐに反動で長期間寝込んでしまうことになるからです。また、その後の減薬も大変なのでそれは避けたい。そんなこんなで、友人の初めての訪問なのに、望むような時間を彼と過ごせそうもありませんでした。
「重なるものだよ、そういうのって」と言われてもね、やっぱり「ついてないなぁ」という気がするものです。病気になってから、他人に僕のことで気遣わせたくないという意識が強くなりました。自己中心的で他人のことなど気にせず生きてきたのに、病気で僕は変わってしまった。
僕が一番自由奔放だった学生時代を共にした友人は、変わった僕を見て「がっかりするだろうな」と、でもそれは杞憂(きゆう)に終わりました。彼も僕もこの30年余りの歳月の中でそれなりに成長し、変わりました。反面、その人の真の人間性は変化しないものだなあ、とも実感しました。
遠い大阪からミュンヘンまで来た理由が、「君に会いに来た」というのはとてもうれしいものです。そういう友人を持っていることは、僕の大きな財産だと思いました。
「最近周りで亡くなる人が多くて、今、君に会っておかないと後悔するかもと思ってな」という友人に、「おい、ちょっと待ってくれ。それは、僕がもう死ぬということが前提か? まあ、確かに普通よりはそうかもしれないけど。それなら、泰ちゃんのほうが僕より太っているんだから、脂肪率いや死亡率は高いよ。君のほうが早そうだけどね。そういえば、昔、『死亡遊戯』というブルース・リーの映画が……」と返し、話が突拍子もなく飛んでしまう僕の支離滅裂な話についてきてくれる。照れ隠しの冗談と本音が入り混じる会話はすごく楽しく、大阪で過ごした僕のルーツの部分にもつながることを再確認しました。
それぞれ違った道に
彼とは、中学2年に同じクラスになってからもう40年以上の付き合い。とはいえ、僕はミュンヘンに30年以上住んでいるので、日本に帰ったとき会うぐらいで、近況を報告する程度のものでした。
僕たちは中高一貫の私立中学に通っていたのですが、高校生になると僕は今でいう登校拒否のようなことを繰り返す不登校生徒となり、林君は担任の先生から僕のお目付け役を任命されたり、かなり迷惑をかけていました。
僕は思い立つとそのことしか目に入らず、考えずに短絡的に行動する性格で、後先のことなんて考えませんでした。彼にはダメだったときのことや仕事としての将来も考える、社会に適合できるところがありました。
僕は大学に行くなら、「好きな絵を描いて過ごせる美大にしようと、漠然と思っていました。彼は絵よりもデザインに興味があり、2人で美大に行こうと決めました。彼は大雑把な僕と違い、美大受験用の塾を見つけてきたり、芸大の受験用の夏期講習を申し込んでくれたり、本当に色々と助けられました。
ところが、高3の晩秋、教師から出席日数不足で受験できないことを言い渡されてしまい、それならと僕は卒業後イギリスに語学留学に。帰国すると彼は大学生になっていて、僕はバイトをしながら、渡独の費用を貯め始めました。
その頃から、生活の違い以上に、将来の展望や考え方も違っていき、昔のようないつも一緒にいる友人から少し距離のある友人に変わっていきました。渡独後も、帰国時には毎度会っていましたが、もう昔のような会話にはあまりなりませんでした。
彼がデザインではなく建築科に進んだと聞いたとき、数学が苦手なのに「一生の夢の我が家、計算間違いで崩壊したらシャレにならん」とか、思ったことも。その後、彼が建築事務所で働きながら一級建築士の資格を取り、独立したと聞き驚きましたし、本当にうれしかった。
建築家として賞をとるほどに
僕も今では、SNSを活用しています。「コンピュータなんかツール、意地張らずに使えばいいだけ」という彼の助言も後押しになっていたと、今になって思います。そのおかげで、日本の情報も入ってくるので、彼がいろんな賞を取ったり、テレビで彼の設計した建物が紹介されたりというのを見聞できるようになりました。
僕が、社会の一線から身を引いているから余計にそう感じるのかもしれませんが、彼が褒められることは、本当にうれしい。彼は、他人の見ていないところで努力を今でも続けているんだろうと思っています。
3日以上の休みを取るのも長期の海外旅行も、独立してから初めてだと彼は言っていました。自営業は休みを取るのは無理と思う人も日本には多いと思いますが、休まないと人間は壊れてしまいます。僕は、それを体現していますから。これを機に、少し建物など見て回ると彼は言っているので、そうなって欲しい。
昔は強引で体力勝負の多かった僕と、その逆の林君、今は彼が僕の体調を気遣ってくれている。状況や生活はまるっきり昔と変わりましたが、それでも話をしていると高校時代のようなデジャブ感(既視感)を感じます。
友人の太陽アレルギー
彼がやってきた最初の3日間はミュンヘンに滞在しましたが、天候が悪くて日本人には肌寒いくらいでした。薄着で来た彼は、寒いを連発。「最近、太陽アレルギーになった」と、持参した塗り薬や飲み薬を僕に見せていました。
欧州の天候は本当に目まぐるしく変わり、たった1日で冬から夏になったりします。気温だけでなく太陽の光の変化は、四季を感じる日本の穏やかなものとはまるで別物で、慣れていないと太陽アレルギーの人には危険です。
僕はミュンヘンに住んでいて太陽アレルギーを発症しましたが、日本に帰ったら症状は出ません。日本の夏の日差しは強いですが、針を刺すような痛みの日光を感じたことはありません。
日本でアレルギーを発症するなら、ここではもっと気をつけないといけないのですが、ここの太陽を知らない彼は、案の定発症し、かゆみに悩まされたそうです。飛び込んだドラッグストアで購入したUVカットのスプレーがよく効いたそうですが、僕の心配が当たってしまいました。ただ、薬やUVカットのスプレーが効かない僕と違い、その後は大丈夫だったのでよかった。欧州に来る人は、お気をつけください。
それにしても、最近は携帯電話のSNSの使用で、旅行も本当に楽になったと思います。彼は、海外で使用できるWi-Fiを持ってきていました。列車の乗り換えや道順も人に尋ねなくてもわかり、言葉が通じなくても旅行を楽に楽しめたとか。ネット経由で電話をすれば僕にいつでもつながるし、不安も少なかったようです。
日本に電話して、留守番の奥さんに定期的に連絡を取るにも便利。ただし、面倒なこともあったようで、頼まれた買い物の事細かな指図まで可能なので、大変だったようです。なるべくお土産を少なくと、小旅行用のキャリーバッグできた彼ですが、帰りにはそれが2つに、そんなものですよね。
敷石
最初は、僕に会うのが目的で、観光は二の次のように思っていた彼ですが、近代建築が好きな人にとってドイツは宝の山だったようです。彼はとくにバウハウス(第1次世界大戦後にドイツ中部に設立された美術学校)が好きで、昔の学生寮に宿泊できると聞き、浮き浮きしてデッサウに行きました。
デッサウはバウハウス生誕の地で、バウハウスに興味のないドイツ人には東ドイツのひなびた街デッサウを知っている人は少ないでしょう。僕の家族も誰も知りませんでしたし。しかし、彼には興味深く、滞在を1日伸ばしたくらいでした。
サブカルチャーが好きで、パンクミュージックなどが大好きな彼にはベルリンも大変楽しく、また来たいと言っていました。ケルンでは、僕の息子とガールフレンドが案内役を買って出て、デッサウで予定を伸ばしたためにわずか数時間の滞在でしたが、ケルン大聖堂は見たようです。
ミュンヘンでは観光の名所、美術館も3つほど駆け足で見て回りました。ミュンヘンも観光地として有名ですが、町のよさは住むことでわかると思います。
彼は、「なんとなくだけど、君がミュンヘンに住んでるのがわかる」と言いました。「ほかの町に比べてきれいで穏やかで、人間が親切で丁寧で、安全というか安心感がある。きっと住みやすいんだろう」とも。それを証明するように、ドイツ人の住みたい都市ナンバーワンの座をミュンヘンはずっと確保しています。
それにしても、興味のあるものは人それぞれだと思いました。職業柄、建築工事中の様子を見たり、「資材がむき出しで置いてあるのが信じられない」と嘆き、人員を減らして安くあげる代わりに、公共工事などは気が遠くなるほど時間がかかることを聞くと、変に感心したり、僕らにとっては何の変哲もない建物や敷石に興味を持ち、日本の見た目だけ同じで無意味な道路石畳のつくりを教えてくれたりしていました。
会いにきてくれた友人は僕の財産
彼の実家は手広く商売をしていましたが、メインは魚屋さんでした。現在の彼は先生とも呼ばれる建築家ですが、僕には今でも「魚屋泰ちゃん」なのです。
彼の家には絶えず犬や猫がいました。彼のおばさんがこれまた犬猫大好きで、今でも飼い犬が亡くなると、こっそりと次の犬を「飼ってくれって頼まれたの」と言い訳しながら飼うような人で、彼も動物には慣れています。
娘の犬はしょっちゅう我が家にいるため、彼が朝食のときは付きっきりでおねだり。スペインの野良犬だっただけに、皆このおねだりには逆らえず、彼も多めに食べ残したヨーグルトをあげる羽目になっていました。
ドイツでは犬を公共交通機関に乗せるときでも、街で散歩させるときでも自然に振る舞え、人間と犬の関係が日本より近いのも彼には印象的だったようです。
2週間の滞在の間、いろんな話をして本当に楽しかった。普段のようにもっと時間があれば、「余裕をもっていろんなことができたのに」とすごく残念に思いますが、僕の人生はこういうものだと思っています。
ちょうど、すべてが面倒な気分になっていたときに、僕にとっては大きな2つのイベントが同時進行で起こりました。遠くまでわざわざ会いに来てくれた友人。彼と話しができて、新たなモチベーションも生まれそうな気になっています。
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