がん哲学「樋野に訊け」 7 今月の言葉「to do から to be へ」

樋野興夫 順天堂大学医学部病理・腫瘍学講座教授
取材・文●常蔭純一
発行:2017年2月
更新:2017年2月

  

以前のように働けなくなり、退職を考え始めた

T・Yさん 52歳男性/会社員/東京都

 1年前に直腸がんが見つかり、切除手術を受けました。幸い手術はうまくいったのですが、それ以来、ストーマの装着を余儀なくされています。以前と比べると、ストーマも改良の手が加えられ、使い勝手がよくなったといわれます。しかし、頻繁にトイレに行かなければならない現実は変わらないし、やはり、臭いのことも気になります。そんなこともあってか、せっかく職場に復帰はできたものの、今ひとつ、仕事に身が入らないのが実情です。

私が在籍しているのはOA機器の販売会社で、私は地域ごとにいくつか設置されている営業課の1つを任されています。これまでは課のリーダーとして、日々、得意先を回り、率先垂範(そっせんすいはん)で仕事に取り組んできたつもりです。深夜までの残業もいとわなかったし、連日、得意先の接待で飲み歩くこともありました。

しかし、がんを患ってからは、以前と同じようには仕事に集中することができません。体調のことを考えると、遅くまで残業することもできないし、ストーマが気になって、長時間の外回りにも二の足を踏んでしまう始末です。こんな状態では、課員を引っ張っていくことはとても望めないでしょう。早い話が、私はがんを患ったことで、リーダー失格というべき状況に陥ってしまったのかもしれません。そう思うと、課員たちの私を見る目も変わってきたように思います。これまで仕事一筋に生きてきただけに、引き際もきれいにしたいと思っています。身の退き方について、そろそろ上司と相談しようかと思っています。

余裕があるから余計なことを考える

ひの おきお 1954年島根県生まれ。(財)癌研究会癌研究所病理部、米国アインシュタイン医科大学肝臓研究センター、米国フォクスチェースがんセンター、(財)癌研究会癌研究所実験病理部長を経て現職。2008年「がん哲学外来」を開設、全国に「がん哲学カフェ」を広める。著書に『見上げれば、必ずどこかに青空が』(ビジネス社)など多数

 少し前まで、日本の会社ではがん患者に対して理解不足で、がんを患うと、その人は会社での居場所を失くしていたものです。しかし、最近では事情が大きく変わっており、がん患者への理解が進み、個々の患者さんの状況に応じた復帰の仕方が認められるようになっています。T・Yさんがスムーズに職場に復帰できたのも、そうした社会変化を物語っていると言えるでしょう。

逆に変わらないのは患者さんの側の意識です。多くの日本人の共通点として、真面目で周囲に迷惑をかけることを嫌う性格があげられます。いかにも日本人らしい周囲に気遣うナイーブな生き方です。ある意味では美学といってもいいかもしれません。中年以降の男性サラリーマンには、その傾向が最も顕著に見られます。そのせいでしょう。がんになると、会社や周囲よりも、患者さん自身が、周囲に迷惑をかけてまで会社に残りたくない、足を引っ張るくらいなら職場を去っていくべきだと考えてしまう傾向が目立ちます。T・Yさんはそうした中年サラリーマンの典型と言えるでしょう。

さて、そこで考えたいのは、T・Yさん自身が本当に仕事を辞めたいと思っているかということです。会社が嫌になった、仕事が嫌になった、というのであれば、外に新天地を求めるということも考えるべきでしょう。しかし、T・Yさんの質問からは、そうした気配はまったくうかがえません。逆に会社や仕事に愛着があるからこそ、迷惑をかけたくないと考えておられるのでしょう。そうだとすれば、会社を辞める必要など、全くありません。会社側はT・Yさんが、がんになったことを百も承知で、これまでと同じポジションでの職場復帰を認めてくれているのです。そこには、これまでの功績や経験、人柄、さらにがんになっても十分やれるという評価も込められているのでしょう。それならそこに堂々と乗っかってしまえばいいのです。私に言わせれば、T・Yさんには、まだまだ余裕がありそうです。必死の状態であれば、他の人のことなど考える余裕もなくなるでしょう。逆にいえば、その余裕が結果的にT・Yさんを追い詰めているように私には思えてなりません。

問われるのは「to do ではなく to be」

もっとも、だからといって、T・Yさんががんになったという現実が変わるわけではありません。以前ほど、体調がよくないのも事実でしょうし、ストーマが気になるのも致し方ないことでしょう。つまり、以前と同じようには働けない。では、どうすればいいのか。答えは簡単です。無理をして以前と同じペースで働く必要などまるでない。現在のT・Yさんの状態に合わせて働くようにすればいいのです。

がんを患うまでT・Yさんは、率先垂範で先頭に立って課員を引っ張り続けてきたと言われます。その立ち位置を変えてみればいい。より具体的には、後輩に道を譲り、自分は最後尾から全体を俯瞰(ふかん)して眺めながらエールを送るようにすればいいのです。そうして後輩たちが迷い、悩んだときには、これまでの経験を活かして適切なアドバイスを送ってあげればいい。つまり課員たちを引っ張る役割りから、後押しする役割りに変わっていけばいいのです。

そこで1つだけ守っていただきたいのが、常に穏やかな笑みを浮かべ続けていること。細かな状況変化に一喜一憂したりせず、より大きな視点で課員たちを見守り続けるということです。余計なことは考えず、ある意味では無邪気に自分の役割を果たしていけばいい。かつて大ヒットした映画に例えるなら、「ゴッドファーザー」のような存在として課を支えて行くということです。そんなT・Yさんの存在があれば、課員たちも存分に力を発揮することができるはず。そして、彼らの成長にT・Yさん自身も達成感に満たされることでしょう。それはこれまでにも増して、やりがいのある仕事ではないでしょうか。

私の人生の師の1人である教育者、新渡戸稲造は「人生において最も大切なことは to do ではなく、to be である」と語っています。その人の価値は、何を為すかということよりも、どう存在するかにかかっているということです。

T・Yさんには、この言葉をそのまま贈りたい。細かなことに気を捉われることなく、しっかりと自らの役割を果たしていただきたい。そうすれば自ずから道は拓けていくでしょう。そのためにはまず、自分に自信を持つことでしょう。課員たちの見る目が変わってきたというのは、T・Yさん自身に迷いが生じていることの裏返しといっていいでしょう。仕事のスタイルは変わっても、自信に満ちた表情を取り戻せば、課員たちの視線もまた変わって来るでしょう。焦らず、無理せず、余裕の笑みを浮かべながら、新たな役割にチャレンジしていただきたいと思います。

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