がん哲学「樋野に訊け」 31 今月の言葉「歯を食いしばって笑顔をつくる」

樋野興夫 順天堂大学医学部病理・腫瘍学講座教授
取材・文●常蔭純一
発行:2019年2月
更新:2019年2月

  

かけがえのない子どもを白血病で失ってしまった

R・Eさん パート勤務/37歳/東京都

 昨年の秋のことでした。私たち夫婦の一人息子が急性骨髄性白血病(AML)のため10歳で亡くなりました。病院では最善の治療を施してもらったと思っていますし、私たち夫婦もできるだけのことはやったと思っています。でも、1人息子を亡くした思いは生易しいものではありません。

それ以来、私はまるで抜け殻のような毎日を送っています。毎朝、夫を会社に送り出し、自転車でスーパーに向かい、パート社員として昼過ぎまで働いています。それからは買い物や食事の支度などの家事、時折りはテニスで友人と汗を流すこともあります。こうして見ると、子どもがいたときと生活自体はそんなに変わらないようにも思えます。

でも、気持ちのあり様はまったく違うのです。子どもがいたときは特段、子どものことを考えているわけではなくても、生活そのものに張りがあり、1日1日を満たされた気持ちで送ることが出来ていました。

でも、今は何をやっても味気なく、つまらなく他に何もやることがないから仕方なく、家事をこなし、働いている状態で、最近では日々の暮らしそのものが無意味なものに思えています。

夫は仕事で外にいる時間が長いせいか、最近では当初の虚脱状態から抜け出しつつあるようで、「気持ちはわかるけど、前に進んでいかないと」などとわかったようなことを口にし始めています。ときには「俺たちはまだ若いのだから、また、子どもに恵まれることもある」と言うようにもなりました。私はそんな夫の言葉の1つひとつにイライラ感が募って仕方ありません。

その結果、「あなたはお腹を痛めてないから、私の哀しみがわからないのよ」と、声を荒げてしまうこともあります。本音を言えば、私も夫と一緒になって前向きに一歩を踏み出したいのです。でも、気持ちが切り換えられず、自分でも歯がゆい状態が続いていているのです。このままでは夫婦関係まで損なわれてしまいそうです。前向きに生きていくために、私はこれからどう、人生と向き合っていけばいいのでしょうか。

夫婦で異なる哀しみへの反応

ひの おきお 1954年島根県生まれ。(財)癌研究会癌研究所病理部、米国アインシュタイン医科大学肝臓研究センター、米国フォクスチェースがんセンター、(財)癌研究会癌研究所実験病理部長を経て現職。2008年「がん哲学外来」を開設、全国に「がん哲学カフェ」を広める。著書に『見上げれば、必ずどこかに青空が』(ビジネス社)など多数

 がんという病気は残酷です。ときには質問のように、かけがえのない幼いこどもの命まで奪うこともあります。残念ながら、同じようなケースは他にも少なくありません。

実は数カ月前に、私が主宰するがん哲学カフェにも同じような悩みを抱えたご夫婦が訪ねて来られているのです。

そのご夫婦は40代で、ご主人はある大学で教鞭をとっておられます。ちなみに奥さんは乳がん患者でした。その2人がR・Eさんのご夫婦と同じように白血病で中学生の1人息子を失くされ、生きがいを失くしたと私を訪ねて来られたわけです。

「どうすれば人生を充実させられるでしょうか」という問いかけに、私は奥さんが乳がん患者だったこともあって、「カフェを開いて、他のがん患者さんをサポートしてみてはどうですか」と話しました。そのご夫婦は、R・Eさんの所とは逆にご主人は落ち込んでおられましたが、奥さんは気持ちのうえでは元気でした。

そして、その奥さんが私の提案に乗り気になり、それからほどなく都内でがん哲学カフェを開設する運びとなりました。結果、今はご主人も仕事の傍ら、カフェを手伝って、お2人とも生き生きと日々を送っておられます。2人が共通の目標を持つことによって、子どもを失くすという痛烈な哀しみを乗り越えようとしているわけです。

共倒れにならない生き方

もっとも、このご夫婦の場合はレアケースというべきなのかもしれません。現実には、子どもを失くした場合、夫婦が揃って虚脱状態から立ち直るのは、なかなか難しいことです。と、いうのはショッキングな出来事に対して、ご夫婦の受け止め方は、それぞれ違っていることがほとんどだからです。

痛烈な哀しみに直面した場合、人間の反応は2通りに分かれます。1つは長く悲しみに暮れるパターン。そしてもう1つは歯を食いしばって元気を出そうとするパターン。

私のこれまでの経験からいうと、不思議なことに夫婦はそれぞれが異なるパターンの反応を見せるのです。R・Eさんのケースで言えばご自身の落ち込みが激しく、ご主人は立ち直りの兆しを見せています。

そして、そのことに対してR・Eさんはイライラ感を募らせているというわけです。こうした場合の解決法として、1つには夫婦が同じ感情を分かち合うという方法もあります。私が尊敬する幕末の偉人の1人、勝海舟の妻たみは、勝夫婦が面倒を見ていたアメリカ人医師のご婦人が亡くなったときに、その娘クララに「哀しくなったら一緒に泣きましょう」と話しています。夫婦の場合にも同じ手法は効果的でしょう。同じ感情を分かち合うことで、ある種のカタルシスが得られ、それがバネとなって、悲しみを乗り越えることもできるでしょう。

ただ、この場合は2人が共倒れともいうべき状態に陥って、いっそう哀しみが深まってしまうことも考えられます。

そうして考えると、R・Eさんが立ち直るうえで、最も大切なことは自力で新たな一歩を踏み出していくということでしょう。そのためにはR・Eさん自身が変わっていかなければなりません。当然のことですが、そこには何らかのきっかけが必要でしょう。

例えば、私を訪ねて来られたご夫婦の場合は、私の「カフェでも始めてみては」という言葉に触発されています。同じようにR・Eさんにも何らかのきっかけとなる刺激が必要でしょう。その刺激を求めて、R・Eさんには積極的に外に出ていただきたい。

R・Eさんにとって今がとてもつらい時期であることは私にもよくわかります。でもだからこそ、歯を食いしばって笑顔をつくって、新たな活動を始めていただきたい。そうした活動の中で得られた新たな出会いが、最初はぎこちない笑顔をきっと自然なものに変えてくれることでしょう。そのときには、ご主人を受け入れる余裕も生じているに違いありません。

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