がん哲学「樋野に訊け」 29 今月の言葉「先のことを憂うより今を楽しむ」

樋野興夫 順天堂大学医学部病理・腫瘍学講座教授
取材・文●常蔭純一
発行:2018年12月
更新:2018年12月

  

自分や娘の将来のために遺伝子検査を受けたい

A・Sさん 主婦/37歳/東京都

 5年前に結婚して2人の女の子を持つ30代の専業主婦です。昨年秋、入浴中に体を洗っているとき、右の乳房にあずき大のしこりに気がつきました。嫌な予感を覚えて、自宅近辺の病院で検査を受けると、早期の乳がんであることが判明しました。早期段階だったため、手術で部分切除、乳房もそのまま温存することができました。

ただ、これからの長い人生を考えると、30代の若さでがんを患ったことがとても不安です。ネットで、「若いうちに発症した乳がんは遺伝性のものであることが多い」という記事を読んだからです。私のがんも遺伝性である確率が高いということでしょうか。

それなら、今は治癒していても、再発したり、反対の左側が乳がんになる可能性が高いということではないでしょうか。それに遺伝性がんなら、2人の娘の将来も心配です。そんなことを考えているときに、やはりネットで「がんの遺伝子検査」が浸透し始めていることを知りました。それからというもの、私自身、そして2人の娘のために、乳がんの遺伝子検査を受けたほうが良いのではないかと思い始めています。その反面、正直、怖さも感じます。将来のリスクを知ることについて、先生はどうお考えですか。ご意見をお聞かせください。

大きく分けて2つの遺伝子検査がある

ひの おきお 1954年島根県生まれ。(財)癌研究会癌研究所病理部、米国アインシュタイン医科大学肝臓研究センター、米国フォクスチェースがんセンター、(財)癌研究会癌研究所実験病理部長を経て現職。2008年「がん哲学外来」を開設、全国に「がん哲学カフェ」を広める。著書に『見上げれば、必ずどこかに青空が』(ビジネス社)など多数

 ご質問にあるように、最近では遺伝子を対象にしたゲノム医療が進化を遂げています。そして、そのゲノム治療の進歩に歩調を合わせるように、がんの遺伝子検査も広範囲に浸透し始めています。もっとも、ひと口にがんの遺伝子検査といっても、その性格は大きく2つに分かれています。

まず1つは、治療の一環として行われる遺伝子検査です。すでに述べたように、最近では、遺伝子レベルでがんを抑えるゲノム医療が盛んに行われています。例えば、遺伝子変異を解析し、それに対応した分子治療薬を用いる薬物治療もその1つです。

がん患者さんを対象にした遺伝子検査は、こうしたゲノム治療を絞り込むために行われます。つまり患者さんの遺伝子に適確に対応した治療を実施するために、遺伝子検査が行われるわけです。こうした治療を前提とした遺伝子検査については、当然ながら私は賛成。治療を成功させるために、受けていただきたいと思っています。

ちなみに、乳がんの遺伝子検査は少量の血液を採取するだけでOKです。ただ、現在はまだ、保険が適用されておらず、そのために数10万円の費用が必要です。しかし、その費用に見合った効果は、すべてのケースに当てはまるとは断定できませんが、効果があるケースも見受けられます。

もっとも、ご質問を見ると、A・Sさんが遺伝子検査を受けたいという気持ちは、それとは別のところにあるようです。遺伝子検査のもう1つの目的として、将来の発がんリスクを把握するということが挙げられますが、A・Sさんも、そのために検査を受けたいと望んでおられるようです。しかし、率直にいって、私はそれに対する答えは曖昧なものと言わざるを得ません。

遺伝子検査で発がんリスクを知ることに、大きな意味があるとは思えない

A・Sさんがネットで調べられたように、最近では、治療とは別に、将来の発がんリスクを見通すために、遺伝子検査を利用するケースも増加しています。そうして実際に、ある程度は発がんリスクが予測できるようにもなっています。

例えば、乳がんの場合でいえば、検査結果がポジティブ(陽性)な人の割合は、乳がん患者さんの5~10%、その場合の発がん率は70%程度と言われています。

しかし、そこで考えたいのは、それが実際にどのようにその人の人生に影響するかということです。言葉を換えれば、発がんリスクを知ることの意味とは何なのか、ということです。

発がんリスクがわかったからといって、誰もが発がんするわけではもちろんないし、その確率に対する考え方も人それぞれです。70%という数値を否定的にとらえる人もいれば、肯定的に受け止める人もいる。

それに乳がんの場合でいえば、大半の患者さんは、遺伝とは別の要因で発症しています。と、すれば遺伝子検査で発がんリスクを知ることにはそれほど大きな意味があるとは思えません。

さらに言えば、遺伝子検査でリスクが大きいとわかった場合、そのことに過剰に反応してしまうということも考えられます。例えば、食事制限や無理な運動など、生活を極端に変えてしまうということも考えられます。そして、そうした生活の変化がストレスにつながり、逆に発がんリスクの増加につながってしまうということもあるのではないでしょうか。

そんなことを考えると、リスクを把握するための遺伝子検査は曖昧な回答しかできません。もちろん、A・Sさんが自分自身や2人の娘さんの将来を思う気持ちはわかります。

しかし、それなら、逆にもっとおおらかに、今を楽しむべきではないでしょうか。がん遺伝子がポジティブで発がんリスクが高い、その事実はどう努力しても変えることはできません。そうした自分ではコントロールできないことは、心の奥底にそっとしまい込んで、その時が訪れたときに心配すればいいのではないでしょうか。

そしてもう1つ、質問を拝見して感じるのは、A・Sさんがネット情報に踊らされているのではないかということです。

もし、どうしても検査を受けたいというのであれば、その前に医師に話を聞くなど、もっと精度の高い情報を集めるべきでしょう。おそらくその時には、その医師も私と同じように、検査に曖昧な見方を示すと思います。

たった1度の人生です。いたずらにリスクを知って一喜一憂するよりも、今を精いっぱい楽しもうではありませんか。

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