がん哲学「樋野に訊け」 25 今月の言葉「流れに身を任せ、今日を精一杯生きていけばいい」
息子が戻ってくるまで、家業に励みたい
Y・Tさん 70歳/和菓子店経営/女性/東京都国立市
Q 30代で両親を亡くし、40代で夫とも死別した後、女手ひとつで嫁ぎ先の稼業である和菓子店を切り盛りしてきました。事業は順調で、私が采配を振るうようになってから地元で2店を新規開店。今では地域の有名店として、雑誌などでも取り上げられるようになりました。亡くなった夫との間には、2人の息子にも恵まれています。
息子たちは、今は会社勤めをしていますが、いずれはどちらかに店を譲りたいと思っています。でも、それまでは精一杯、店の経営に腕を振るいたい。そうして盤石な体制を築いた後に、息子に店を任せたいと思っているのです。
ところが、そんな願いに思わぬほころびが現われました。昨年秋、どうも体の調子がすぐれなかったので地元の大学病院を訪ねると、直腸がんの診断を下されてしまったのです。病期はステージⅡでまだ他の部位に転移はなかったので、手術しました。元気なうちは今まで通り、仕事に精出したいと思っています。
ただ、担当の先生や周囲の人たちの中には、70歳という年齢を考慮して、そろそろ一線を退いて、ゆったりと人生を楽しんではどうかという人もいます。実際、私自身も再発予防に飲んでいる抗がん薬の副作用がきついときなどは、踏ん切りのつけ時かもしれないと思ったりもします。
しかし、息子たちはまだまだ店を継ぐ気はないようで、そうなるとやはり、自分が頑張るしかないと思い直す毎日です。
進むべきか退くべきか、この年になって自らの生き方に悩むとは思いませんでした。これからの人生について、アドバイスがいただければ幸いです。
無理に方向を決定しない
A 仕事と治療のどちらを選択すべきか――。
私が主宰する「がん哲学カフェ」にも、同じ悩みを抱えて訪ねて来られる患者さんが少なくありません。そんなとき、私はまずその患者さんの気配をうかがいます。そして健康面での不安が見られない場合には、例外なくこうアドバイスしています。
「あわてて結論を出す必要はないのではないですか。ちょっと様子を見られてはどうでしょうか」と。
Y・Tさんの場合も同じです。ご質問を見ると、Y・Tさんは現段階では健康面で何の不安もないようです。それなら今、この段階で何らかの結論を出す必要はまったくありません。これまでと同じように、ごく自然に仕事を続けていればいい。そうして、例えば、体調がすぐれなくなるなど、状況に変化が現われてくれば、その時にじっくりと対応策を考えればいいのです。早い話がとりあえずは流れに身を任せておけばいいということです。
日本人は根が真面目だからでしょうか。先に右か左か、大きな方向性を決定し、それを忠実に守ろうとする傾向があるようです。
しかし、私には、こうした方向付けにあまり意味があるようには思えません。
と、いうのは、いくら先を見通しているつもりでも、実際には、想定もしていなかった出来事が起こることがよくあるからです。そうした場合には、先走った方向付けが足かせとなって、現実に柔軟に対応できず、逆に事態が悪化していくということも十分に考えられます。それなら、あらかじめ結論など定めずに、何が起きてもうまく対応できるように、懐深くゆったりとした姿勢を保ち続けるほうがずっといいのではないでしょうか。
自然に生きれば、周囲も協力してくれる
もう少し具体的に見ておきましょう。
例えば、この段階でY・Tさんが経営を退き、嫌がる息子さんに無理やり、店を引き継いでもらったとしましょう。その場合には、当然ながら、その息子さんの人生は、とてもハッピーなものとは言えないでしょう。また息子さんが勤めていた会社も、なぜ母親が元気なこの段階で、大切な戦力が奪われるのか、と不満が残ることでしょう。
さらに店で働く人たちも同じです。Y・Tさんが社員たちにがんになったことを伝えているかどうかはわかりません。
しかし、治療の間に仕事を休んでいるのだから、Y・Tさんが病気だったことはわかっているでしょう。もっとも、今のY・Tさんは以前と変わりなく元気なのに、なぜ突然引退するのだろうか。何か特別な理由があるのだろうか、と社員たちが疑心暗鬼の状態に陥ることも考えられます。
そうなると、Y・Tさんが望んでいる店の発展など望むべくもないでしょう。そして、おそらくはY・Tさん自身も不完全燃焼の状態で、「自分はもっとできたはずなのに」と、フラストレーションに苦しむことになるでしょう。
もちろん、逆の場合も同じです。例えば、自分はあと10年現役でいると決定し、そのことを周囲に宣言したとしましょう。その場合には、少々体がきつくなっても、頑張り続けなければならない。肉体的にも精神的にも苛酷な状態が待ち受けていると言わざるを得ないでしょう。そうなるとせっかく育てた店の経営もうまくいかなくなるでしょう。
そんなことを考えると、自然に流れに身を任せることの意味がご理解いただけるでしょう。これまでと同じように淡々と仕事を続けていけばいい。そうして体がきつくなったと感じたら、それまでは週に6日だった出勤日を3日にする、さらに店の中で頼りになる人を見つけ、自分の仕事の一部をその人に委ねるようにするのです。
そしてさらに状態が悪化すれば、息子さんに事情を話して、後を任せるようにすればいいのです。母親のつらい状態を見れば、息子さんもすんなりと事態を受け止めてくれることでしょう。その時には、仕事の一部を委ねた人物が力を貸してくれることでしょう。
もっとも、心身ともに元気な今は、そんなことを考える必要はありません。今は流れに身を任せ、その日その日を、ただ精一杯生きていけばいいのです。そうすれば、ごく自然な形で全体が丸く収まって行くものなのです。そのなかでY・Tさんの願いも叶えられるようになると思います。
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