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がん哲学「樋野に訊け」 8 今月の言葉「雨は誰にでも降る、大切なのはその時にどう対応するか」

樋野興夫 順天堂大学医学部病理・腫瘍学講座教授
取材・文●常蔭純一
(2017年3月)

残された時間を好きなように生きたい

M・Iさん 55歳男性/会社役員/神奈川県

 3年前に早期の肺がんが見つかり、内視鏡による切除手術を受けました。その後、定期的に検査を受けてきましたが、異常が見つかることはありませんでした。それで、この分なら大丈夫かもしれないと、考え始めた矢先に異変が起こりました。

3カ月前に腰に痛みが起こり、もしやと思って、検査を受けたところ、肺がんの骨転移が見つかったのです。さらに1カ月後の検査では、転移が脳にも進んでいることが判明しました。

全身転移の可能性があるため、手術は適用されず、これからは放射線と内科的治療で対応していくことになるでしょう。もっとも、そうした治療にも遠からず、限界が訪れることと思います。

明言こそしないものの、医師とのやりとりから察するに、私に残された時間は1年あるかないかといったところではないかと思います。と、すれば余生をまっとうするには、闘病にエネルギーを費やすよりも、釣りや演劇鑑賞など、好きなことをして生きていくほうがベターではないかと思うようになりました。家族はがんばって、治療に向かってほしいと激励してくれます。しかし、私は自分の思い通りに生きたいと願っているのですが……。

死を見つめながら人生を考える

ひの おきお 1954年島根県生まれ。(財)癌研究会癌研究所病理部、米国アインシュタイン医科大学肝臓研究センター、米国フォクスチェースがんセンター、(財)癌研究会癌研究所実験病理部長を経て現職。2008年「がん哲学外来」を開設、全国に「がん哲学カフェ」を広める。著書に『見上げれば、必ずどこかに青空が』(ビジネス社)など多数

 人生の最期にどう向き合うか。最初に結論をいうと、それはその人次第としか言いようがありません。しかし、後で悔いを残さないためには、しっかりと理解しておかなくてはならないこともあります。それは自分が選択した生き方について、しっかりとした覚悟を持っているか、ということです。

がんが悪化して、死を間近に感じるようになったとき、日本人の対応は大きく2つに分かれます。1つは何とか、生を長らえようと積極的に治療に取り組むタイプ。そしてもう1つは、M・Iさんのように、残された期間を自分の好きなように生きようとするタイプです。私の実感では、それぞれ5割程度ずつといったところでしょうか。不思議なのはいずれを選択した人の場合でも、最後になって後悔が残っている人が多いということです。

人生最期のひとときの過ごし方を自分で考えて決定したにもかかわらず、死に直面したときに程度の差はあれ、後悔が残っている。これはどういうことでしょうか。私は最期の生き方を決定したときの判断に甘さが残っているのではないかと考えています。つまり、自分自身の選択についての覚悟が足りない、ということです。

その人が自分自身の生き方にどれだけ納得できていたか。それはその人の最期の言葉に集約されます。たとえば偉大な哲学者、カントは臨終の際に「これでいい」という言葉を残しましたし、日本の幕末の偉人、勝海舟は「これでおしまい」と語りました。

また私の人生の師の1人である内村鑑三の娘さんの臨終の言葉は「もう往きます」というものでした。いずれも、何の後悔もなく恬淡とした態度で、自らの死に向かい合っています。これは自らの人生に納得しているからこそ、発せられた言葉でしょう。

では、どうすればこのような潔い最期を迎えることができるのか。それは彼らが日頃から自らの死を見つめ、そのうえで人生について考えてきたことによるものでしょう。死を見つめることで自らの人生を空から俯瞰(ふかん)するように、より大きな視点で捉えることができるものです。そうした人生に対する視野の大きさが、彼らの死に際を充実感に満ちたものにしてくれているのです。

いわばクォリティ・オブ・デス。残念ながら、私たち日本人はクォリティ・オブ・ライフについてはよく考え、他の人たちとも話し合いますが、死についてはほとんど考えることもない。当然ながら、残された日々の生き方についての覚悟も不十分な状態です。それが死に際になっての後悔につながっているのではないでしょうか。

M・Iさんにも、しっかりと覚悟を決めたうえで、残された人生の生き方を決定してもらいたい。そのためには、まず、クォリティ・オブ・デスの視点を持っていただきたいと思います。そうして、しっかりと覚悟を決めたうえで、毎日をがんばって生きていれば、ご家族の考えもまた、変わってくるでしょう。

家族もともに死について考える

では、クォリティ・オブ・デスの視点を持つことによって、人生はどう変わるのか。ここで最近70代後半で亡くなった、ある男性の肺がん患者さんのケースを紹介しましょう。

その患者さんはドクターショッピングを生きがいにされており、暇があれば、ネットでいろんな病院の情報を調べ、そこで興味が出てくれば、奥さんに車を運転してもらって、実際に病院を訪ねて話を聞いていました。

その患者さんが亡くなった後、奥さんがその報告に私を訪ねてきた。そのときに奥さんをねぎらうと、ポツリと「主人からはただの一度もありがとうといわれたことがないのです」と、不満を漏らされたのです。その一言で、私は亡くなった患者さんには、クォリティ・オブ・デスの視点が欠けていたことを理解しました。その患者さんが、自らの人生をもう少し大きな視点で捉えていれば、奥さんをはじめとして、残される家族のことも視野に入っていたことでしょう。と、すればご家族に感謝の言葉を伝えることで、ご家族との間でのもっと深い絆を実感しながら、死に向かい合えただろうにと考えざるを得ませんでした。あるいは、そうして大きな目で人生を捉えていれば、ドクターショッピングに明け暮れていた人生最期の一幕もまた、違ったものになっていたかもしれません。

もう1つ、ご家族の話が出たついでにいうと、クォリティ・オブ・デスについて考えるのは、本人だけではなく、ご家族も同様だということです。M・Iさんの場合もそうですが、ご家族は患者さんに頑張って治療を受けて、可能性にチャレンジしてもらいたいと願うのが人情というものです。しかし、それが本人にとっては「余計なお節介」にすぎないことがよくあります。

私の知っているケースでも、80代の男性がん患者さんがアメリカに在住している娘さんから、毎日のようにがんの治療情報を送られてうんざりしていたことがあります。娘さんにすれば善意の行動でしょうが、本人にとっては、不要なお節介に他なりません。そんな行き違いを生じさせないためにも、ご家族にもクォリティ・オブ・デスについて一考する機会を持っていただきたい。地上に雨が降るように、死は誰にでも訪れる。そのときのために、しっかりと心の準備をお願いしたいと思います。

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